集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

ほとんどスーパー

お久しぶりです。稲森です。テストが終わりました。二つの意味でテストが終わりました。今日からは特別学期というものが始まるのですが実質的には春休みです。
春休みはどうせバイトをして、それか一日中家にいるか、たまに出掛けたりなんかして日々の退屈さから逃れようとしたり、退屈に飲まれてみたりするのでしょう。
きっと私が大学を卒業したら春休みという存在が眩しく贅沢なものに感じられるのでしょうが、与えられている現在は正直手持ちぶさたというか、有効活用できなくてもて余しているような感じです。


髪を切ったことに関して、結構色々な人が気づいてくれました。以前の方がよかったという人もいればこっちの方がいいという人もいたり、そんな感じです。

お客さんから『ばっさり髪切ったんですね』なんて言われることがよくあって、ああ私は見られているんだな。見ている人がいて気づいてくれる人がいるんだなと思うと少し心が暖まりました。私が覚えていないお客さんからも声をかけられたので尚更そう思いました。

スーパーのレジの仕事をテトリス感覚でやっています。買い物かごに山盛りの商品があるとき、こっそり心の中で『こいつぁテトリスし甲斐がありそうだぜ』なんて考えています。スナック菓子やパンなどの軽いものは後から上に乗せる、鶏のレバーや魚など水気のあるものはビニール袋に入れる、などのスーパー独自のルールがありますが、基本的にはテトリスです。かごのなかに綺麗に商品をおけた時小さな達成感があります。あと白菜がまるまる入っているとやりがいがあります。白菜を打つのが好きなんです。

持ってきたかごの中身がごちゃごちゃとしている方が『元より綺麗になった』と思えるので嬉しいです。最初から綺麗においてある人の場合、こだわりのある人なのかなと思ってちょっと緊張します。その場合元と同じように置きます。
あと買い物の合計金額が5000円を越えると心の中で高揚します。合計金額の心のうきうきで言えば大晦日は凄いです。スキャンしたらかまぼこが500円だったり鏡餅が1500円だったり信じられない価格設定で、しかも飛ぶように売れていく。合計金額が20000円とかって時もあります。楽しい。

計算は機械がやってくれるので頭を使う必要はありません。ただテトリスに興じていればいいのです。自分は商品をスキャンするだけの肉人形みたいだなって思うときもあります。
1年以上やって、商品を袋に積めたり、かごにいれたりする動作が早くなったような気がします。相変わらずトラブルに対しての対応力はすごぶる低いですが。

笑顔が上手くなったかはわかりませんが、接客用の弾んだ声は手にいれることができました。あの声はバイト中しか出せないし、また意識的に出しているつもりもありません。あの声はいったいなんなのでしょうか。

よく来られる、そして自分が好感を持っているお客さんの煙草は覚えます。いつもピアニッシモを買われる女性のお客さんがいるんですけど、銘柄を聞く前から『おいくつですか』って弾んだ声でピアニッシモを取ろうとすると、『今日は違うのにする』と言われてしまったとき、『な…なるほど…‥』と露骨にしょんぼりしてしまいます。

理想像が具体的になる

二十歳になると焦る。自分の年齢が10代から20代になってしまった。
三ヶ月ほど付き合った末別れた人が一人いるため、私の経験値はゼロではないのだが、数字で表すなら0.3ぐらいだと思う。確実に1に満たない。私が大学を卒業したら22歳。焦る。世の中の人たちが私と同じ歳の時に経験してきた事柄をずっと私は経験せずに、欠落したまま生きていくのだろうかと思うとめまいがする。

交際経験が乏しいにも関わらず、二十歳になって少し結婚を意識するようになった。強い結婚願望があるわけではないが、漠然と自分は将来結婚しているのだろうなという風な想定をしている。甘いよね。でも一人で老いて死んでいきたくないよ。

今日、S氏と電話をした。彼女とは友人になって8年経つが初めてまともに恋バナをした。お互い歳を取ったのだと物悲しくなる。
(一年前に相談をしたあれは恋バナに含まれるのだろうか…?微妙)
Sは『工学部に気になる人がいるのだが、今年の四月に話しかけられて以降、何も進展がない。どうしたものか』というようなことを言っていた。
彼女は一浪して獣医学部に入っている。卒業したら25歳。何の経験もないまま社会に野放しにされることが恐怖でならないらしく、カレピッピを大学で見つけたいようである。

今まで誰かに好きなタイプを聞かれても、具体的なものが全然出てこなかったのだが、近年物凄く具体的なものが出てきていてそんな自分に驚いている。
ただし、私には物差しが以前交際したその人のみであるため、『その人のことがトラウマになってるじゃないか』と友達からは笑われてしまったけど。


1 ちゃんと首がある人
首が綺麗なひとというのは結構限られる。太っている人や背の低い人で首の綺麗な人はあまり見られない。
別に首が綺麗でなくてもいい、ただちゃんと首がある人がいい。太り始めると首という部分は如実に分かりやすくなり、肩が上がって首が太短くなって首がなくなってしまう。
ちなみに以前交際していたその人には首に肉がついていて、首がなかった。

2 猫が死んでも私のせいにしてこない人
一時期は『猫を飼っている一人暮らしの人にろくな人はいない どこか人間としての欠損がある人物に違いない』などという飛んだ偏見を持っていたのだが、最近は柔和になり『一人暮らしで猫飼ってもいいけど、猫が死んでも私のせいにしてこなければいいよ』って思っている。完璧にトラウマになっている。

3 必要最低限の清潔感があること
汗をかいたら臭いを発生させるのは仕方のないことだし、私ももう少し柔軟にならなければいけないところはあると思う。しかし相手にも多少は気を遣っていただきたい。お互いいいところで折り合いをつけたい。(トラウマになってる)


4 人からお似合いと言われて腹が立たない
(トラウマになってる)

5 私のことを一生下の名前で呼んでくれること
私は下の名前で呼ばれることを特別なことだと考えている。中学高校ではほとんどの人が私を稲森さんと呼び、一部の仲のいい友達と家族だけが私のことを『雫』と呼んでいた。

大学でサークルに入った当初、アカハライモリを飼っているという理由で『いもり』というニックネームで呼んでもらうようにした。『大して親しくもないけど同じサークルのよしみということだけで下の名前で呼ばれるのは嫌だ。私のことを下の名前で呼ぶのは特別な人だけだ。』と思ったからだ。
特別なものは特別扱いしたい。私は特別扱いをするのもされるのも大好きなのだ。

うちの父や母はお互いを呼ぶときは名前で呼び、私に話すときにはお母さんお父さんと言い、器用に使い分けていた。
また父方も母方の祖父母もお互いの名前を呼んだり、『あなた』というその人だけを指す呼び方をしている。それが当たり前の家で育った。

だから幼い頃にテレビドラマで、ソファーで寝そべっている夫が奥さんを『ママ』と呼んでいる姿を観たときはびっくりした。えっ、誰のことを呼んでるの。確かに奥さんは子どもがいて『ママ』ではあるけどあなたのママではないでしょって。

家に帰って夫にママとかお母さんとかお母ちゃんとか、そんな世俗的な呼び方をされるのは嫌だ。
(でも親同士がお父さんお母さんと呼びあったり、パパママと呼びあう家は多いようである。)


私がもし家庭に入ったら、私を今まで雫と呼んでくれた友達とは縁遠くなるだろう。仕事を得たり母になったりしたら、
『稲森さん』だとか『○○さんの奥さん』だとか『○○ちゃんのママ』だとか役職名だとかで呼ばれるようになる。
きっとどんどん下の名前で呼ばれる機会は減るのだろう。私のことを雫と呼んでくれる祖母も母も父も、きっと私が40~50歳にかけての間に皆死んでしまっているだろう。
私がお母さんになってもおばあちゃんになっても、ずっと名前で呼んでくれるのはあなたぐらいしかいないんですよ。せめてあなたぐらいは私のことをちゃんと名前で呼びなさいって思う。

6 私の話をちゃんと聞いてくれる
女という生き物は話を聞いてもらいたい生き物だ、などと自分の意見を女すべての意見であるように言うつもりはないが、少なくとも私は自分の話を聞いてもらいたいと思っている。私が話しているときに話の腰をバッキバキに複雑骨折させてくる人と以前話したのだが、正直もやもやとした。かといって私自身はそんなに人の話が聞くのがうまいようには思わない。自分は出来ないくせに人には話を聞けだなんて、なかなか虫のいい話だな。でも理想だから許してください。


もし結婚するなら男の人は共働きであることを求めるだろう。今まで自由に使えていたお金を圧迫してくるだけの存在なんて必要ないだろうから。私は職がなければ、親を幸せに出来ない上に結婚も出来ないということになる。修羅だ。

私が初めて付き合った人 2

後ろから声をかけられた。Yちゃんだった。『あっ!Yちゃんだ!』無言を貫いていた私が弾んだ声を出す。Yちゃんと少しお話をする。
『そちらの方は?』『体育祭見に来てて、今駅まで送ってるの』
Yちゃんともう少しお話ししていたいと言う気持ちが芽生える。しかしYちゃんから
『邪魔をしては悪いし、私こっちの道から帰るから』と言われた。同じ駅を目指しているYちゃんがあえて分かれ道に行ってしまった。

この男のためにYちゃんに気を遣わせてしまった、という事実がショックだった。私はYちゃんからの一緒に帰ろうという誘いを断ってこの人と一緒に帰っているのだ。(そこに私は一抹の気まずさを覚えている)
Yちゃんにこの人と付き合っていると認識されて、その上で気を遣って分かれ道の方へ行ってしまったのか。
臭いのことよりも、この人といることに接待を意識したことよりも、痛々しい視線よりも、何よりも私にとってはショックな出来事だった。
疲れが全身に回ってくる。頭がヒヤリと冷えるような感覚があった。
ああ、もうやだ。明日も同じようにこんな繰り返しをして、私一人がこんな風に気疲れしなくてはいけないのか。


駅まで送った後家に戻り、『明日の体育祭には来ないで欲しい』『私はこの言葉をあなたに嫌われてもいいという残酷な気持ちから言っている』というようなメールを送った。
その人自身がなにも悪いことをしていないのに、自分の苛立ちのままに理不尽なキツイ言葉をかけている。自己嫌悪が嵐のように起こった。私は嫌なやつだ。でも本当のことは言えない。特に臭いのことなんか絶対に言えない。


そのメールを送って一週間ほど交流が途絶えていたのだが、彼からメールが来た。『少しでいいからお話しできませんか』と。
『雫さんに言われた言葉がショックで、食事も喉を通らず、自分のことにすら構わない状態だったので、飼っている猫のことに気をやることができなかった。最近何びきか拾ってきたうちの一匹を死なせてしまった』という内容だった。

私は最初にこれを読んだとき『お前は何を言っているのだ』と思った。でも激しい罪悪感がこの気持ちをすぐに覆い隠してどっかへやってしまった。

「理不尽に残酷な感情を向けて酷いことを言ったのは私だ。私の言葉が人を傷つけ間接的に猫を殺してしまったのだ。」

私は自らの罪悪感のために、自らの罪をなあなあにしようと思った。私は自分に負い目があると冷静な判断が出来なくなるところがある。

『酷いことを言ってごめんなさい。私が猫を間接的に殺してしまったようなものですよね。嫌われてもいいなんて言ったのは本意ではありません。私も話したいです。』といったメールを送った。
『猫が死んでしまったのは雫さんのせいではありません。もともと拾ってきた猫のなかで一番体の小さな個体で、この事は関係なく死んでしまったかもしれません。』という返事が返ってきた。
本当なら一ヶ月で終わるはずだった関係を無理矢理もう二ヶ月繋げたのだ。


八月、中学高校時代からの友人であるSから『神戸の元町に占いの館ジェムっていう凄く怪しげなところがある。凄く好奇心をそそられるのだが、一人でいく勇気がない。一緒に行ってくれないか。』と誘われた。


占い師から、『付き合っている人の生年月日を教えて』と言われた。知らないと答えた。聞いたことがないし、多分向こうも私の生年月日を知らないと。
それを聞いた占い師は『あなたたちの関係って惰性なのね』と言った。
占いというよりも、三ヶ月も付き合っていながらお互いの生年月日を知らないという私の発言からの分析のように感じたが、それでも心の奥底で思っていたことを他人の口から言われると妙にすっきりするところがあった。

その夜私はSと一緒に銭湯に行った。
その時初めて人にその人のことを言った。付き合っている人がいるということを知っている人は何人かいたのだが、その人の一部始終を語ったのは初めてだったのだ。

話を聞いたSは『その男まじないわ』と言った。
『雫ちゃんのせいじゃないと言いながらも、猫の話をわざわざするってことは、雫ちゃんに罪悪感を植え付けたかったからでしょ。それに乗せられる雫ちゃんも雫ちゃんだよ。
私はこの男の小さい人間性に辟易する。寒気がする。反吐が出る。生理的に無理。物理的に無理。色々無理。』と痛快なまでに罵ってくれた。
『ああそうか、私は友達からまじないわと言われるような人と付き合っているのか』と思うと、『別れよう』って思った。本当はもっと前から別れる理由を探し求めていて、ようやく自分を納得させられる格好の理由を見つけられたように思った。

『にしても、よく私がその人のこと好きじゃないの分かったね。その人のことなにも言わなかったのに。』と言うと、
『何も言わないから分かったよ』と言われた。そうね、私って物凄く分かりやすい子だもんね。


銭湯から家までの帰り道を友人Sと並んで歩いた時の爽快感は今でも覚えている。

湯上がりの火照った体に、夏の気持ちいい夜風が当たる。銭湯で買ったパック入りのグレープフルーツジュースの爽やかな味。洗い立ての体はすっきりとしているし、気持ちもまたすっきりとしていた。

家に帰って、友達と一緒に別れのメールを考えた。出来る限り相手を傷つけないように薄めて薄めた文章を書いた。

『夜分遅くに申し訳ありません。どうしてもお伝えしたいことがあり、メールを送らせていただきました。
突然のことで驚かれると思いますが、私とあなたの恋人関係を解消させてください。
ここまで異性と仲良くなれたのはあなたが初めてでした。あなたの優しく、細やかに気配りしてくれるところは今でも好きですし尊敬しています。ですので余計にその気持ちを恋愛感情として取り違えてしまったのかもしれません。
あなたの時間を無駄にしてしまいました。わがままばかりで本当に申し訳ありません。どうかおゆるしください。』
(紙に下書きを書いた上でメールを送っている。まだその下書きが手元にあったので原文に忠実だと思う。)

そのメールを送ったら、相手は別れることを承諾してくれた。メール一本で人間関係が終わるだなんて、メルマガの購読のようにあっさりとしている。その後彼と会ったこともメールをしたこともない。
こんなにもあっさりと人間関係って終わるんだなって、その手応えのなさに拍子抜けしたことを覚えている。

私が初めて付き合った人

初夏のような陽気の五月のことだった。


付き合って一ヶ月になる彼から最近何か予定はあるのですかと聞かれた。
『週末に大学で体育祭があります。この大学は一年生は文化祭と体育祭は必ず出席しないといけなくて、単位をもらえなくなるんですよ』
というようなことを私は言った。
彼が『その週末は空いているし、女子大の体育祭とはどういうものか見てみたい』
という提案をして来た。体育祭に男の人を連れていくのか。大学の体育祭なんて保護者すらも見に来ないと聞いている。あまり気乗りはしなかったが特に断る理由もなかったので請け負った。

体育祭当日。あの人は保護者席に座っていた。私はあえてその席の斜め前に、彼に振り向くような体勢で座った。そうすると彼は私の隣に座ってきた。なんで私の隣に座ってくるのだろう、と少し不快な思いになったが(私はパーソナルスペースにうるさい)ああそうか交際相手だからこれが普通なのかと思い直した。

その日は五月であるにも関わらず本当に暑い日だった。その時、彼の体から酸味のある異臭がした。
うわあ、辛い。隣に座っているのが辛い。耐えられない。
そんなことを考えては駄目よ私。だって私はこの人の彼女なんですよ。この臭いはもしかしたら日頃の食生活や体調不良によるものかもしれないし、彼の体調に気を遣ってあげるべきではないのですか。男の人にあまり接したことがないからわからないけれど、多かれ少なかれ男の人ってこういう臭いのする生き物なんじゃないの。そこを許容できなかったら私男性と一生交際できないわよ。あっお願いだから風上に立たないで!

そんなことを考えているとどんどん私の口数が減っていく。どうして愛しいはずの人が隣にいるのに私の心はこんなに冷めているのだろう。付き合ってまだたったの一ヶ月ですよ。
あれか?手に入れた獲物に興味がなくなるとか?釣った魚に餌はやらないみたいな?それともあれか?私は本当はレズビアンで男性が無理とか?それともあれか?『恋は盲目』と言うけれども、私は今視力を取り戻してしまっているのか。明瞭に見える世界は残酷だった。

ぼんやりと遠くの景色を見つめる。なんて空が青いのだろう。ぼんやりとした淡い色の空にところどころ配置された白い雲。いくつか聳える無機質なビル。なんて気が抜けていて、無機質な景色なのだろう。どうして私の心をこんなにも荒涼とさせるのだろう。

体育祭の種目に出る時は、そんな憂いとはうってかわって楽しい時間に思えた。一年の五月なんて入学したての頃だ。もうすぐこの子と仲良くなれるかもしれないという予感にワクワクする。終わったあとに微笑みあったりハイタッチしたり。ああもっとこの子たちと話したい。もっとこの子たちと仲良くなりたい。
でもそんなこと考えてはいけない。彼は私以外の他の知り合いも誰もいない中、たった一人でここへ来たのだ。しかもわざわざ休日を使ってここへ来たのだ。無責任に放置なんて出来ない。私は彼女なのだから、彼をもてなさなければならない。使命を果たさなければならない。競技が終わったあとはあの定位置の席に戻る。
使命感を覚えれば覚えるほど、気負えば気負うほど苦しくなった。あああの子達と一緒にいたい。もっと仲良くなりたいと考えている私のことをひどいと思った。

体育祭が終わって、Yちゃんから声をかけられた。『一緒に帰ろう』って。嬉しかった。一緒に帰りたい。
でも私は彼女と一緒に帰ることは出来ない。断った。そして彼に電話をかけ、駅まで送っていく。

女子大の体育祭の帰り道、しかも父兄の見に来ないような体育祭の帰り道。当然女子ばかりの大名行列だ。女子の洪水の中のたった一人の男の人である彼と、その隣の私に矢のような視線が突き刺さる。痛い。そうか、私は大学に入学して一ヶ月しか経ってないのに体育祭なんかに男を連れてくる浮かれた女だと認識されているのか。しかもさほどイケメンではない(失礼)彼を自信満々に連れてきているように思われているのか。女の群衆の中無心で駅を目指す私は、十字架を背負いゴルゴダの丘を目指すイエス・キリストのような気持ちになった。お願いだから私を見ないで、彼と一緒に来た人だと思わないで。無言で早歩きをする。



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特別な女の子 2

中学校に上がって、私は初めて今が終わらなければいいのにって思った。Zと出会ってからの私の6年間は何よりもきらきらしていた。

同じ小学校から上がった友達から、友達になったのだと言われて紹介されたZと目があった時、
『ああ、私はきっとこの子の友達になる』といった、言葉に出来ないけど、どこか確信めいた予感があった。

Zは色素が淡く、生まれつき髪は淡い栗色をしていて、サラサラのロングヘアー。肌の色は白雪のように白く、頬には桃色の赤みが差していた。鼻筋が綺麗で、うっとりと見惚れてしまいそうになる横顔の持ち主だった。
Zは見た目ばかりでなく、心もまた美しい人だった。思慮深く、人のことを考える優しい心を持っている。強く自分の意見を言うことは少ないけれど、絶対に嫌なことはちゃんと嫌だとハッキリ言う。
自分の中に堂々とした主義があって、凛とした男前な精神があり、とても格好いい。それでいてユーモアのセンスに富んでいて面白い。頭もよくて勉強も出来る。

Zのどこが好きなのかと友達から聞かれたとき、『美人で優しいところ』と答えたときは悔しかった。美人で優しい、なんてそんなどこにでもあるような言葉を使って彼女を形容したのがたまらなく悔しかった。彼女はそんなものじゃないんだよ。もっとずっと魅力的な人なんだから。私の彼女に対しての思いは、『崇拝』に近かった。

私にとってZは特別な女の子だった。今まで出会った人の中でも、きっとこれから出会う人の中でも。そう私は思っていた。
高校を卒業して会うことがなくなり、彼女が私の日常の人でなくなって、他に親しい人間が出来たとしても、私の心の中の小箱に、宝物のように大切にしまわれた、ずっと特別なままの人。


私もまた、彼女にとっての特別な女の子になりたいと願った。彼女の『特別』が欲しかった。今まで出会った友達の中で、これから出会う友達の中で、一番の友達になりたかった。
彼女の目に映る私が、誰よりも面白くて一緒にいたい女の子であればいいと思った。彼女の手を引き、彼女をより面白い渦中へ誘うそんな魅力的な存在になりたかった。

濃密な二人だけの世界を作りたい、とは思わなかったけれど、二人しか知らない、他の人は入れないような何かを作ることができたらいいと思っていた。


誰よりもZとの時間を共有している人物になりたいと思ったし、誰よりも彼女のことを知っている人間になりたかった。どんな些細なことでも彼女のことを知りたかった。
私は彼女に対しての強い知識欲があった。ポテトチップスはコンソメ派、誕生日は12月28日、嫌いな食べ物はキムチと納豆と生の鮭だとか、そんな細々しいことを誰よりも覚えていた。私が誰よりも彼女のことを把握しているのだという自負が欲しかった。それだけで彼女の一部分を私のものに出来たような気持ちになるからだ。



中学三年生の時にZが一度だけ『雫ちゃんが自分の出会った友達の中で一番信頼している友達だ』と言ってくれたことがある。一度でいいのだ。その言葉を一度でも言ってくれたなら私はずっと幸せで、私の心を捕らえるのだから。


初めて自分の夢を友達に打ち明けたのだと言って、『将来医者になりたい』という夢を明かしてくれたこともある。一番最初に打ち明けた友達が私であることも嬉しかった。

Zは今も浪人をして医者になるための勉強を頑張っている。女の子で二浪して、それでもなりたいもののために頑張れるなんて覚悟を感じる。私にはそんなやりたいことなんてないもの。だからそんな彼女がいつまでもいつまでも誇りなのだ。

仮定だけれど、もしZが川で溺れていて、自分の命と引き換えに助けられるなら、私は彼女の身代わりになら死んでもいいなと思った。私にはやりたいことなんてないし、社会にでてどれだけの人の役に立てるかわからない。でも彼女は将来医者になって、きっと人々を救うだろうし、その優しい性格は色々な人から愛されるだろう。
他の誰のためにも死ねないけれど彼女の為だったら死んでもいいって、あの頃は本気で思っていた。

特別な女の子 1

小学六年生の時、私は自らの人生を諦観していた。

保育園の頃、私は早く小学生になりたかった。近くの小学校に通う子どもたちが保育園に訪れて、『小学校は楽しい』と言っていたからだ。私からは彼らが眩しくて、素敵なお兄さんやお姉さんに見え、憧れた。きっと小学校に上がれば今よりも楽しい日々が待っているのだと期待した。

でも実際小学校に上がると、勉強はしなくてはいけないし、とても窮屈な日々が待っていた。大人たちは『もう小学1年生なんだから』と言った。『もう小学2年生』『もう小学3年生』年齢が上がれば上がるほど、あなたはもう幼くなくて、しっかりしなければならない年齢なのだと言われた。

私はもう二度と『まだ』とは言ってもらえないし、私自身もまた自らのことを『まだ』と思うことはないのだ。『あなたはまだ保育園だから』と言って無条件に甘えられた時代は終わったのだと思うと、保育園に戻りたいと思った。

本当に中学生になったら今よりもましな日々が訪れるのだろうか。小学校から逃げるように卒業して中学生になっても、その時には今度はきっと小学校に戻りたいと思っているのだろう。私のこの今は未来の私から見たらましに思えるのだろうか。
高校生になっても、もっと大人になっても、私はずっとそれを繰り返すのだろう。私は一生今に満足することはなくて、過去を美しく思い、未来の方がきっとましだと夢を見る。
小学六年生のくせに、私はこの世界の理を知ってしまったと思った。それに気づいてしまったために、自分の人生にたいして冷ややかな気持ちが生まれる。
中学生になりたくない。止めようがないことだけれど私はそう思った。

(小学校の頃よりも、今の方が甘いものが好きになってより泣き虫になって、中身も色々と子どもっぽくなっているような気がする。)

首に対しての気持ち悪い熱意

(突如フェチシズム溢れる文章を書きたくなったんだけど、書いててああこれ黒歴史になりそうだなって思った。消したい。) 

私は、人の首という部分が好き。首という部分が、呼吸に関係している部分だからかもしれない。男性でも女性でも、細くて長い首を持つ人のことを綺麗だと思う。もし将来誰かと付き合うことがあるなら、首の綺麗な人だといいなって思う。

首の綺麗な人が、ワイシャツのボタンを一番上まで締めていて、その上できっちりとネクタイをしているのに魅力を感じる。決してボタンを一つでもあけたり、ネクタイを緩めたりしないで欲しい。そういうことはこっちの脳内で勝手にするから余計なことはしないで欲しい。 きっと一番上まで締めたボタンは僅かな圧迫を覚えさせているだろう。その上にきっちりとネクタイを締めていたら、きっと喉元に違和感があるだろう。綺麗な首がそのまま出されずに、隠されていて、その上圧迫されているということに何故か魅力を感じる。

もし誰かと交際することがあって、ある程度の信頼関係を築けたなら、首を触らせて欲しいと思う。一度でいいからやってみたい。

首全体を手のひらで包み込むようにして触る。特にその手に力を加えたりはしない。ただそのまま触るだけ。時おり親指の腹で首の輪郭をなぞったり、鎖骨の窪みの感触を確かめたりする。 きっと相手はその手のことを強く意識するだろうと思う。首という体温の高い部分に私の手が触れたとき、ぞくりとするような冷たさを覚えるだろう。手のひらの柔らかい部分で少しでも喉の部分を押したなら、それだけでひやりとした圧迫感を覚えるだろう。
首なんて普段自分で触ることもなければ誰かに触れられることもない場所だ。ある程度の信頼関係がなければ絶対に触らせてもらえない。 普段触られることのないそこに触れられた時、自らの心臓を撫でられているかのような、ぞわぞわとむず痒く、落ち着かない感覚があるだろう。自分に触れてくるその手のことが気になってしょうがなくてたまらなくなるのだ。素敵。