集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

コンビニ行脚いたずらの旅 1

なにか面白いことがしたい。この何も起こらない退屈な日々に何か変革を起こさなくてはならない。
リメンバー。思い起こせ。高校生のあの頃は、自分で面白いことを探していたではないか。隕石は燃え散る瞬間が最も美しいように、『衝動』している瞬間が最も私らしく美しい瞬間ではなかったか。
そういうわけでプロジェクトC(コンビニエンス)、開始。


スーパーのアルバイトの後、私は自転車を漕いでバイト先の近くのコンビニエンスストアに赴いた。
私はこつり、こつりと静かな靴音を立てながら店内を物色する。一回、二回と店内をぐるぐる回ったあと詰め替え用の柔軟剤を手にとり、レジへ赴く。
Pontaカードの有無を聞かれたあと、平静とさりげなさを装って言う。
『あっ、ストローつけてください』と。


私は以前から思っていた。
『コンビニで洗剤を買ったときに、ストローをつけろと言ったら、店員は「この人もしかして飲むんじゃないか」と期待するんじゃないか。そうすることで店員の想像力を掻き立てることが出来るんじゃないか。』と
これは私の6つのコンビニを巡る、行脚の旅である。


一件目、ローソン。接客してくれたのは私と同年代の20代の女性。化粧っ気が薄く、素朴な印象を受ける。彼女は普通にストローをつけてくれた。でも柔軟剤を見つめていたので、もしかしたら少し疑問に思ったかもしれない。

二件目、100円ローソン。猫用の缶詰めのキャットフードを一個レジに持っていき、『お箸をつけてください』と言った。店員は40代ぐらいの男性。髪質にくせがあるのかふわふわとしていて、前髪も長く、どこか清潔感に欠ける印象があった。
缶詰めを手に取ると特にその缶詰めを一瞥することもなくすみやかに袋に積めていた。あの缶詰めを猫用のものか人間のものかなど疑うこともない様子だった。レジが混雑しているのも関係していたと思う。

三件目、セブンイレブン。人はあまりいなかったし、バイトもその子しかいなかった。20代ぐらいの女の子で、とても眠そうにしている。アイプチのテープが見えていることもあって、彼女が疲労しているように見えた。
先ほど二件目ではあまり缶詰めを見ずに袋詰めされてしまっていたから学習して、缶詰めを一個ではなく二個買うことにした。同じ缶詰めだとリピート機能で、バーコードを読み込まなくてもレジの入力が出来てしまうので、あえて違う種類の猫缶を買う。
『お箸をつけてください』と言うと、バイトの女の子は
『何膳ご用意いたしましょうか』と聞いてくる。不意を突かれた。そんな質問をされるのは予想していなかった。彼女はあくまで接客の定型文を口に出しているのに過ぎないのだろうけど私は、
『この子は一体この猫缶を何人で食べることを想定して聞いているんだ?』と思うとおかしくなってしまった。笑いだしそうになるのを堪えて変な顔を しながら『い、一膳で…‥‥』と言う。次のコンビニへ。

続く

過ぎ行く他人と快速電車

鳥取へ帰る友人Sと三宮で別れたあと、電車に乗った。そのままうちには帰らずに途中の駅で降りて一人でラーメンを食べた。その駅はラーメンの激戦区なのかラーメン屋さんが隣り合わせて何店舗もある。文明の利器『食べログ』を駆使して評価の高い店に決める。頼んだのは海老ラーメン。海老のビスクスープみたいに濃い海老の味のするスープが特徴だ。それでいてあっさりしているので美味しかった。 

食べ終わったあとまた電車に乗る。快速急行。自動ドアが開いて、私は車内に足を踏み入れる。席を探していると、男の人が自分の横の席に置いていた荷物を退けてくれた。人の顔を見るのが苦手なのでその人の顔をよく見たわけではなかったが、そのスマートな所作から『この人はイケメンだ。』と判断した。彼の隣に座る。

数駅の間、私は何となくそわそわしていた。ああ、今日にんにくたっぷりのラーメンを食べようかとも悩んだけど海老ラーメンでよかった。もしにんにくたっぷりのラーメンを食べていたら、香しいまでのにんにくスメルを放っていたかもしれない。私があの店の海老ラーメンを選んだのは、神の采配ではあるまいか。 

にしても私手荷物多すぎないか。カバン一つと、コンビニで買ったサラダとミックスナッツが入ったレジ袋と、タイガーズホール、つまりとらのあなの黒いビニール袋。中身は好きな作家の二年ぶりの新刊。ちょっとアレな本。 えっ大丈夫だよねこの黒いビニール袋を見てとらのあなで買ったってバレてないよね。あの人の目線が心なしか、私の手荷物の方を見ているような気がする。いや自意識過剰か。黒のビニール袋から、アレな本から引き離した透明なセロファンが外に出ていた。叫び出したい気持ちを堪えてガサりと袋のなかにセロファンを突っ込む。物音を立ててしまった。多分そのセロファンを見て何とも思わないだろうけど、アレな本を包装していたセロファンだと思うとその人の視界に入れるのが何となく申し訳ない。

あれ、その人の顔どんなのだっけ。横を見てもいいのだろうか。しかし私はチラ見をするのが超下手だ。ガン見になってしまう。顔ごと対象物の方に向けてしまうから、露骨に見ていることがわかられてしまう。 さっき喫茶店で横の人の食べてるものと横の人をじろじろ見てたら友人のS氏に 『まじまじ見てて怖い。これ雫ちゃんが女性だからまだ許されてるけどもし男女逆転してたら『事案』ですよ『案件』ですよ』とたしなめられたばかりだ。
首と顔面は定位置に固定して動かさずに眼球だけを動かすことを心がける。横顔だけがちらりと分かった。服装はお洒落で、手が綺麗。耳にピアスは開いていない。あと細身のジーンズを綺麗に履きこなすような、細い脚をしているということ。 そして何より彼に好感を持ったのが、彼がスマホをいじっていないことだった。普通、一人で電車に乗っているとき、皆居心地悪そうにスマホをいじっている。 しかし彼は窓の外を眺めて、何かを見ている。彼はもしかしたら私と同じ時間を共有しているのかもしれないと、勝手に期待した。 

私も脚を伸ばそうかな、と思って脚を伸ばし、その数秒後に慌てて突然引っ込めた。いけないいけない。靴って見てる人は見てるって言うし、爪先の剥げて磨耗したこの歩きやすい靴を見たら、今隣にいるこの女の生活感が急に襲ってくるだろう。いけないいけない。 隣の人は不審そうにしている。さっきから私、挙動不審だ。席を譲ったことを後悔されてはいないだろうか。

私はこの隣の人が何をやっている人なのかも幾つなのかも、どこの駅で降りるのかも知らない。向こうだって私のことを知らない。もう二度と同じ電車の同じ車両の同じシートに隣り合わせて座ることなんてないだろう。私は彼の生活に何も介入することなんて出来ないし、彼もまた私の生活に入ってこない。一定の距離感で隔たれたままどうにもならない。彼はもう二度と交わり合うこともない他人だ。 なんという心強い安心感と寂しさを与えるのだろう。当たり前のことを改めて意識した。 彼だけじゃない。こうやって交差して過ぎ行き、もう二度と関わることも知ることもない他人は一体何人いたんだろう。またそんな見知らぬ彼らの時間に私が介入できることなんてあるのだろうか。彼らはずっと赤の他人のまま私の前を過ぎ行くばかりだ。 

 私の降りる駅が近づいてきたので立ち上がって、ドアの方へ行った。プラットホームに降り立ったとき、動き始める電車の窓越しに彼の顔を遠慮なく直視した。やっぱりあの人はイケメンだった。 別れるときにようやくその人の顔をよく見たことが、私の他者との関係の象徴のように思えて、何にも言えなくなる。


花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ

バレンタインとグミックス

年々バレンタインが自分にとって遠いイベントになっていく。今年ほどバレンタインの存在感が空気だったことあったかしら。

数日のあいだ、Sという友人がこっちに遊びに来ていて、映画館で映画を観たり(ベイマックス!)家でも映画を観たり、グミを作ったりしていた。

友人と一緒に作って楽しもうと思い、グミックスという、グミをカブトムシやクワガタ、アメリカザリガニ型に作れる子供用のキットを購入した。高校生の時、グミックスが欲しくてたまらなかったのだが、金銭的な事情によって入手することはできなかった。
今はあの頃よりもずっと自由にお金が遣えるし、簡単に購入できた。憧れたものをちっとも高いと思わずに軽い気持ちで買えてしまうことが少し寂しい。発売されてから日が経っていることも関係しているのか定価よりも安く新品を購入することが出来た。Amazonで1900円ぐらいだったかな。

友達と一緒に作業をしたかったのに、一人でやる作業ばかりで、少し場がしらけてしまった。型から足を切り離すのがとても難しい。千切れてしまったりしてとても面倒くさい。ダンゴムシは別だかカブトムシもクワガタもアメリカザリガニも、一回の作業につき一匹しか作れない。作業効率が著しく悪い。
まず最初にコーラを用いてカブトムシを作ったのだが、ツノがもげてしまったし足の接着も面倒臭がったため、どちらかというとGOKIになってしまった。上手くできたら友人にあげるつもりだったのだけれど、自分の想定以上にダメダメだったので、あげないことにする。ごめんね。
グミックスのレシピ通りにはグミは作っていない。そのまま作るとまずいとネットで見たので、30ccのジュースに対して6グラムの砂糖、2.5グラムのゼラチンで作った。あまり市販のグミっぽい食感にはならず、どちらかと言えばゼリーに近かった。
(レシピ通りだとゼラチンが多すぎてゼラチン臭いものになる‥らしい)


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大事なところがもげたカブトムシ。アイデンティティの欠落とはなんぞ。




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アメリカザリガニ製作過程。こいつはザクロジュースで作った。片腕と足二本しかつけてない。もう片腕はうっかりミスで溶かしちゃった。


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(私と同時期にブログを始めた人は多くいたけど、ぼちぼちと書いているのは私ぐらいなんですね。11月に始めたので、3ヵ月くらいになるのかしら。思ったより続いている。もっと早く飽きているつもりだったので、意外である。もしかして私ってまめだったのかしら。

リアルタイムの話は世俗的で、思い出話の方がポエミーなのが何だか空しいですね。現実は醜く、思い出ばかりが美しいっていう真理をついているのかも。)

雪の降る日に

某月某日
この街に雪が降った。積もるほどではない、短期的な粉雪である。口を開けたり目を開けたりしていると雪が入ってくるので、口を固く閉じ、薄目を開けて自転車を漕いでいるとたまらない窒息感に襲われる。バイト先のスーパーに近づけば近づくほどより雪の量が増えるので、このスーパーがこの街の雪の発生源なのではないかとすら思われた。

雪の降る日はある日のことを思い出す。高校の修学旅行で、Zと二人でログハウス調のカフェに居たときのこと。
自由時間に、寒いからここで一緒に寛ごうとどちらからともなく提案して、そこに入った。外は雪が積もっていて寒い夜だった。
店内は木目の穏やかな雰囲気を持っており、オレンジの光が目にも心にも暖かだった。

具体的に何を話したかはあまり覚えていない。私はあのときハーブティーを頼んでいて、(けして美味しくもないし独特の酸味のあるあれを、当時の私は格好つけて頼みたがっていたのだ) 彼女はこの店お薦めのホットミルクを頼んでいた。そのホットミルクは不思議なホットミルクのようで、表面は冷たく中の方は温かくて甘い。二人とも飲み慣れない飲み物を背伸びして頼んで、首を捻りながら飲む。
室内は暖かだが、窓に触れるとツン、と外の冷えた温度が電流のように指先に伝わる。窓の外を見る。『夜の底が白く冷えた』というのはこういう情景なのだろうかと夢想する。暗闇の中に白い斑点がちらちらと明滅するかのように落ちていく。雪の降る日というのはどうしてこんなにも静謐なのだろう。周りの音を吸着しながら、ゆっくりと落ちていくように思われる。その落ちていく雪を眺めていると、時間がまるでストップモーション・アニメみたいに細切れになって、ゆっくりになったみたいに思えてしまう。
何を話したかは覚えていない。窓の外を眺めたり、口に合わないハーブティーで体を温めたことしか覚えていない。それでも私は彼女と何かを共有していて、このゆっくりとした時間の中に安らぎを感じた。どうかこれが永遠に続けばいい、それが無理ならどうか彼女もこの時間のことを覚えていてくれたらいい。そんな風に思ったのだ。

ちーちゃんはちょっと足りない 感想文

阿部共実さんの『ちーちゃんはちょっと足りない』という漫画を読んだのだが、鮮烈な印象が残ったため、感想を書こうと思う。



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この漫画はちーちゃんを主人公にしている…‥と見せかけて、その友人のナツが主人公の漫画であると思う。
一話から四話まではほのぼのとした日常を描き、五話からある事件が起きる。


ちーちゃんはいつも自分と仲良くしてくれるナツに恩返しをしたいと思う。そこでちーちゃんはナツがお金が欲しいと思っているのだと知る。ちーちゃんは女子バスケ部のお金を盗み、そのお金をナツにあげる。ナツはそのお金が悪いお金だと分かっていながらも『二人だけの秘密』と言ってそれを受けとる。



ちーちゃんは色々なものが『足りない』。頭がよくないし、蜂に対しての警戒心も足りない。家は団地で母子家庭で貧乏。倫理観も足りない。中学二年生なら人のものを盗ってはいけないということが分かるはずなのに、彼女にはそれが欠落していた。
この漫画の感想文を書いているブログをいくつか読んだが、作中ではそうと言われていないがちーちゃんは知的障害者であるという解釈をしている人が多いようだ。


ナツもまた、『足りない』という欠落を抱える少女である。勉強は出来ないし、家も裕福ではなく欲しいものは手に入らない。彼氏もいない。満たされずに、『何か』が欲しいと渇望している。
友人の旭ちゃんや奥島くんや如月さんに劣等感を抱き、自己に対しての評価も低い。思春期特有の閉塞的な自分の中の世界を構築しているように思う。

作中で描かれているナツの持つクズさや卑屈さはありし日の私、いや今も私が持ち合わせているものと同じだと思った。一つ一つのエピソードにどこか『ああでもわかるなあ』というような、暗い沼のようなズブズブとした共感があった。
よくナツの思考の中に『私たち』という言葉が出てくる。この『私たち』とはナツとちーちゃんのことを指すと思う。この二人の関係性は二人だけで完結されたもののように思う。この『私たち』の中には、旭ちゃんは絶対に入らない。
ナツがちーちゃんに感じる同族意識は、『ちーちゃんは自分のことを傷つけない存在であり、自分のことを脅かさない存在であり、そして自分と同じく何かが足りない人間だ』と思っているからではないかと思う。だからナツは精神的な深いところでちーちゃんに執着しているし、彼女しかいないのである。ナツがそう思うのには、ナツ自身の自己評価の低さも関係していると考えている。



ちーちゃんは最終的に、自分がやったことが悪いことであることを藤岡さんに教えられ、謝罪し、許される。その藤岡さんのやり方も鮮やかだった。『髪飾りを貰う』と言って盗ろうとすることで、人のものを盗ってはいけないということをちーちゃんに分からせた。このシーンによって読者の藤岡さんの見え方は変わる。

『本当は盗んだのは千恵だった』と言って女子バスケ部に謝ることができた旭。自分が間違っていたと知ってちゃんと藤岡さんに謝ることができたちーちゃん。

それに対してナツはちーちゃんの盗んだ3000円のうちの1000円を自分が貰ったと告白もできず、謝ることもしなかった。藤岡さんにも、旭にも、一生許されることがない。ナツはちーちゃんとは違い、人のお金を盗むことは悪いことだとちゃんと分かっていて、その上で貰ってしまっている。直接的に盗んだのはちーちゃんなのに彼女は許され、間接的にお金を貰ったナツは一生許されることがないのだ。だからナツはずっと自らの行いに罪悪感を持ち続けるだろうと思う。
ナツはけして悪人ではない。恐らくちーちゃんがお金を盗んでこなければ、一生人のお金に手をつけたりなんてしなかっただろうと思う。『ちょっとくらい ちょっとくらい 恵まれたって いいでしょ私たち』って思ったというそれだけのことだ。


せめて自分の過ちを懺悔し、謝罪できれば関係性も変わっていたかもしれないが、それをせず、旭ちゃんの中の藤岡さんの印象が変わったその後で藤岡さんのことを悪く言ってしまった。正直間が悪かったのだと思う。
見た目がギャルめいている藤岡のことは不誠実で不真面目で怖い人だと認識し、優等生の奥島や如月を高く評価するナツの表面的な見方を責めることなんてできない。私だって同じだからだ。
ナツは藤岡さんのいいところを知ることなく中学生活を終えるのだろうと思う。

旭は、ちーちゃんが1000円をあげた相手がナツであることはすぐにわかっただろうと思う。ちーちゃんの交遊関係の中で、お金をあげるような人なんて限られているだろうから。犯人がわかっている上で耳にするナツの発言に失望を覚えたのだろう。
この漫画には旭ちゃんからの視点はない。だから旭ちゃんの考えていることが正確に読めないかもしれない。ナツが旭に思う感情が自意識過剰なものなのか、実際に格下だとみなしていたのかはわからない。

旭の立場からみれば完結された二人の関係に足された一人、というような三人の中においての疎外感はあったのではないかと思う。
旭は付き合いにくいタイプのように見える。独特な口調でものを言うし、思い込みが激しく、女子バスケ部員に対し、ちーちゃんはそんなことはしないと言って激昂する。彼女の美点はちゃんと謝れることだろうか。




あの描写は本当に凄いと思った。欲しかったリボンを手にいれて、このリボンがあれば自分の生活に何か劇的な変化を与えるのだと信じていたが、実際に教室に入り誰からも何も言われず、そのリボンがどれだけ無力であるかを悟るシーンだ。よくあることだ。自分で思っているほど周りは自分に興味も関心もない。
自己嫌悪と虚しさが襲い、景色が歪む。欲しかったリボンを手にいれたのに、ゴミ箱に捨てるナツの気持ちがよくわかった。


ちーちゃんは学び、きっとこれからも成長して前に進んでいくだろう。しかし、ナツは進まずにずっと立ち止まったままだ。いつかきっと前へいくちーちゃんに追い越され、置き去りにされるだろう。ナツだけが不変のまま塩の柱のようにその場に佇み続けるだろう。
その悲しい予感を抱きながらもナツは『私たちずっと友達だよね?』と言っているように私は解釈した。

(ナツにとってはあくまでちーちゃんは足りないなにかを埋めるための一つで、そのちーちゃんすらもいなくなったらもっと足りなくなってしまう。もし高校に入学して、ナツに新たな友人ができたり、もし彼氏ができたとしたら、きっとナツはちーちゃんのことを切り捨てるだろうな、と思う。)


面白い面白くないでは単純に言い表せないような、何とも言えない不快さとダークさがある、凄い漫画だった。
(初めてはてなブログっぽい文章を書いた気がする!)

退廃未遂

いつからか自分にはある恐怖が付きまとっていた。
『私が演じている私の皮を剥いだその奥には、つまらない私しかいない。』と。

私は人と話していて時折ひやりとする。私が本当はつまらない人間であることがバレてしまったのではないかと。私は自分の底を知られることが怖い。真実が白日の元に晒されたとき、人々からは心底見放されるだろう。今まで対等だとして扱ってきた私のことを、「学ぶことを捨てた下衆」だと気づき、軽蔑するでしょう。

『精神的向上心のない者は莫迦だ』と云う有名な言葉がありますね。そうです。私は莫迦なんです。私には意欲がない。意識もない。出来れば何も学ばずに、何もせずに生きていけるならそうしたい。思い返せば私は学業に、いいえ学ぶことに熱心だったことはありませんでした。私はいつも怠惰で、腐っているのです。努力をした覚えなんて一度もありません。いつだって自分が楽な方に身を任せ、行き着いた先もまた自分が楽をした結果なのだと思うと妙に腑に落ちるのでした。
ある時私の脳裏に「頑張らない人間に最終的に訪れるのは死だ」という言葉が過ったことがあります。このまま何かに頑張ることもなく生きていたら、選択肢は先細るのだろうなと。
学ぶことは楽しいことなのでしょうか。今の私にとっては「しなければならないこと」であり「強迫観念」です。私は学ぶことを楽しいと思ったことがあったのでしょうか。

私はもしお家が大金持ちだったらきっと働かないでしょう。しかし残念ながらうちの家は一般家庭です。働きたいというよりも、働かなければなりません。しかし働くためには、雇ってもらうためには勉強しなくてはいけないし、また雇ってもらったあともずっとずっと学ぶことは続くのだと言います。学ぶことからは逃れられないのでしょう。生涯学習です。

中学高校もあまりまともに勉強をしませんでしたし、私の知識は恐らく現役中学生に劣るのではないでしょうか。それを恥と思うことも忘れて体裁だけを取り繕い、それでいて新たに学ぶことをしようとしない。


高校生の頃は小説を読むのが好きでした。本を読むとなんとなく利口になれた気がしましたし、自分の意見がなくても、虎の威を借る狐のように、自分よりも賢い人の意見をさもや自分の考えであるかのように振る舞ってみたりも出来るからです。でもそれは張りぼてです。
数年前に図書館で借りて読んだほとんどの本の中身は、断片的にしか覚えていないものが大半です。私は沢山本を読みました。一年で300冊ぐらい読んでいたように思います。しかし私は本を『数』で言うなら沢山読んだかもしれませんが、本当の意味でちゃんと、一字一句をかみ砕き咀嚼し自分のものにした本は一体何冊あったのかと思うと疑問です。

元々日本文学に興味を持って大学に入ったはずなのに、皮肉にも大学に入ってからの私はそれに興味を失っていました。そうやって俗っぽくなっていく自分をぼんやりと見つめて、デカダンな日々に浸っていました。ある種それは、人によっては笑い飛ばしたくなるようなナルシシズムです。


変わりたいと思うのです。本当に。何度も決意をするのですよ。でもその度に私の決意は何倍もの体積を誇る怠惰の渦に呑まれてしまうのです。


(最近、本を読むのが少し楽しくなって、好きな作家に影響された文章が書いてみたくなりました。如実ですね。)

ヒトリスト断念

少女の頃は太宰治の女生徒を読んでああこれは私だ、と思った。自分に自信がなく、それでいてこっそりと薔薇の刺繍を隠し持っている彼女の姿が私と同じだと思った。あの文章はまるで頭の中の考えてることがとけでたみたいに雑多で、少女らしくて素敵だった。
今読んだらあの頃のような感動はなくて、そんなにピンと来なくなってしまった。いっそ少女のままで死にたかったあの頃を通りすぎた私は、大人になった。
先日バイト先の人に聞いた。いつからおばさんと呼ばれるようになるのでしょうと。バイト先の人は言った。25歳を過ぎたら言われるようになるよと。ああそうか、私のリミットは5年なのだな。短いね。きっと春休みのように有効活用できずに矢のように過ぎていくのだろう。
ずっと少女でいたかったけど、私はもう少女ではないし、同じようにきっと5年経ったら精神までもおばさんになって、おばさんである自分を受け入れるのだろうよ。そう思うと恐ろしいね。

今しかできないことってきっといっぱいあるんだろう。後で若気の至りだと笑って許してもらえるようなことだとか、失敗。私には成功体験も少ないが失敗した体験も少ないように思う。


高校生の頃、ヒトリストになりたかった。
ある日吉野家に一人で颯爽と入っていく女の人を見て、惚れた。あああんな風に一人で吉野家に入っていくのね。なんて自信に満ちていて、優雅で、一人であることに何の後ろめたさもなく清々しいのかしらって。

彼女のように一人を美しく着こなせる、一人を楽しく過ごせる、ヒトリストになろうと考える。
一人で行ったことのない店へ行く。敷居の高いお洒落な所とか、男性客ばかりのラーメン屋とか。一人でカラオケをする。みっちり三時間。一人でしりとりをする。みっちり六時間。二時間を過ぎた頃から言葉が続かなくて苦しくなった。一人でプリクラ。自分の横の空白によしこという架空の友達の絵を描く。
一人でやることに難易度が高いものを次々とクリアし、自分のヒトリストレベルを上げていった。

大学生になって一人暮らしをしてしばらく経つと、一人というものに対しての考え方や立ち位置が変わった。
今私にとって一人とは日常で、普通で、当たり前で、まるで皮膚のように自らに張り付いているものだ。
一人を楽しめたあの頃は一人が非日常で、当たり前の事じゃなかった。学校にいけば、カーストは低いものの自分が集めて作った世界があって、特別な女の子がいて友達がいて、家に帰れば父と母がいた。一人でいることを楽しめていたのは本当に私が一人ではなかったからだ。

一人は何の面白味も魅力もない、ふつーのことだ。むしろ一人が嫌になってる。
当然一人を楽しもうという気持ちがなくなる。一人でいるのにお金を遣うのが勿体ないように思うし、一人で高いものを食べてもそんなに美味しいように思わないし、誰かと過ごす時間にお金を遣いたいと思うようになった。

一人で旅行に行っても全然不安な気持ちにならない。日常の延長のように感じる。もう私は遠いところに住んでいるのだ。だからそこから遠いところにいたってそれは大したことではないのだと。


群れなければ生きていけないなんてと思うけれども、ずっと私はそのままなのだ。学校では寄り添える誰かがいなければ、所属しているところがなければ寒さに凍えて死んでしまうだろう。何かに属しているという安心感はとても強い。
今は何にも私は属していないで、宙ぶらりんだ。そして、一人が嫌になっている。見苦しいだろう。