集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

説明的な、余りに説明的な

昨日私は、呟きを駆使して友人たちと交流する場で、恥ずかしい間違いをした。
予測変換のいたずらによる誤字はよくやってしまうことなので、それ自体を気にしているのではない。
あの文章はわざわざカタカナ語を用いなくてもいい文章だったからだ。
「高校卒業後恒常的に会っているのは一人しかいない」とか書けばよかった。
しかもさらにそれを誤るなんて恥ずかしすぎる。穴があったら埋もれたい。そこに星の欠片の墓標を立てて欲しい。

もともと私はカタカナ語を過剰に使う人が嫌いだ。日本語で書くよりも浸透していてわかりやすいのであれば使えばいいと思うが、どう考えても知っている方が少数派の、日本語で書いた方がわかりやすいであろう言葉にわざわざカタカナ語を使っている人がいる。普通に日本語を使って欲しい。
高校時代、授業でカタカナ語を他用した小論文を読まされたときも「どこのルー大柴だよ」と毒づいていた。
ああいうのは自分がそういう難しい言葉を知っているのが嬉しくて、使いたくてたまらなくなるのだろうか。もしそれなら自分にも覚えがあるので少しかわいげがあると思う。
しかし、「これは皆にとっての常識として通用すると思って使ったカタカナ語だ。」という態度でかかれたものには腹が立つ。知らない方に問題があり一般常識が欠如しているのだと言いたげで。

いろいろと考えて、一週間カタカナ語を使わないことに決めた。私はあまりたくさんカタカナ語にお世話になっていないと思うし、どうにでもなるだろう。
それはこの「集合住宅」でも、「呟きを駆使するある場所」でも「私が現実として生活している世界」でも
同様の決まりである。だからこの散文にもカタカナ語は使っていないはずだ。たぶん。
(バラク・オバマだとかマザーテレサだとか、人名など固有名詞は対象外とする)


午前中はあまり人と話さなかった。
昼食は「赤毛に白塗りの道化師のような人相の、お世辞にも子供向けとは思えない人物を象徴としている、世界中どこにでもある店」に行ってきて済ませた。
「この・・・とんかつの・・・昼のを・・・」と献立表の画像を指で指し示しながら言葉をごまかして注文した。この店は、頼んだ飲み物を勝手に自分で入れる仕組みになっているので、店員は聞いてこない。非常に助かる。
昼ごはんには、中身にとんかつをはさんでいる新発売のものと、どこにでも売っている醤油色の炭酸飲料と、細切りのじゃがいもの素揚げを食した。一日このままカタカナ語を使わずに生活するのは容易だと思っていた。

しかし午後からは鈴木と図書館で待ち合わせをしていた。明日鈴木と遊ぶための計画を立てるのである。
その際にありとあらゆるカタカナ語を使ってしまう。
文章を打つ場合ならある程度後で推敲や添削をすることができるが、咄嗟の会話の場合、カタカナ語が漏れ出てしまうのだ。
「電子機器の電源を切るときの名称」「外套」「大量の旅客の輸送を目的とした自動車」「了解」「24時間営業している便利な店」など、私はついカタカナ語でしゃべってしまった。
あまりにもそれは酷いもので、鈴木からは『もうカタカナ語禁止をやめたのかと思った。それぐらい自然に言ってた。』と言われてしまった。

今日は同じ小売店で働く先輩と夕餉の約束をしていた。店名に『鳥』という名称を入れているにも関わらず、まずい唐揚げを出してくることに定評のある店でだ。あの唐揚げは前回頼んだ際酷い目にあったので、もう食べない。

そこでも私はなるべくカタカナ語を使わぬよう努力した。
しかしお酒が入るとその縛りは有効なものではなくなってしまい、とうとうやめてしまった。カタカナ語を使わずに話そうとするとどうしても会話の拍を遅らせてしまうので、歯がゆくなったのだ。

『世界と繋がることのできる電子機器』の話と『化粧品』の話と『金融』についての話は特にカタカナ語を用いずに話すのが難しいことがわかった。あまり自分はカタカナ語にお世話になっているという実感がなかったが、他用していたのだという事実に気づく。会話上においては、どれだけ意識していてもカタカナ語を使わないのは無理。一日すら持たせることができなかった。

しかし、この「集合住宅」や「呟きを駆使する場」でなら、一週間ぐらいカタカナ語を使わずにやっていけると思う。私はまだ挫けないよ。