集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

人の好意を断れない病

例えばのお話です。ある日、あなたは大鍋でカレーを作りました。朝昼晩食べて三日分ぐらい持つでしょう。さて、そこにあなたの家の隣人が、今日中に食べなければならないようなナマモノを持って現れました。(一度冷凍して解凍されているので、冷凍庫には入れられません。)それをあなたにくれるそうです。
さて、あなたは断れますか。


『人の好意を受けるのが怖い』という畏怖の感情を私は持っている。直接的な原因なのかは分からないが、私が共に過ごした同じグループの友人が関係しているように思う。
彼女は親切で色々なことを私にしてくれて、頼りになる存在だったが、二人きりになるとよく『××ちゃんに○○してあげたのに!』『○○もしてあげたのに!』と共通の友達のことで語気を荒げていた。私はそれを背筋が凍るような思いで聞いていた。

彼女の親切の裏には常に『○○をしてあげた』という恩着せがましい感情があることがわかった。きっと彼女の親切を色々受けてきた私は、彼女の中ではミルクレープのように『貸し』が何層にも積み重なっているのだろう。私は『貸し』の多重債務者だ。
そう思うと相手に借りを作るようで迂闊に親切なんて受けたくないと思ってしまう。

しかしこれは彼女だけではない。人には承認欲求があるし、感謝されたい。そしていいやつだと思われたい願望がある。私だって、人が私にしてくれた大きなことよりも私が人にしてあげた些末なことの方をよく覚えている。相手は覚えてなくても私はきっと覚えていて、何年後も相手に親切にしてあげた自分に酔えるのだ。
人の親切の裏には何かある。無償の愛なんて存在しない。有償の愛ばかりなのだ。

親切を受けてもだいたいは、本当にこれらに恩義なんて私は感じていない。だいたいの親切は受けても受けなくても変わらないし、自分でも出来ることを相手が代わってやってくれるだけだからだ。
その上で「相手が私に『貸し』を与えたと考えているのだろうな」と思ってしまうとたまらなく窮屈になる。

しかし、それでも私は断ることが出来ない。それは何故か。もう一つの矛盾した考えを持っているからだ。


何故人は自分の骨を折って他人に親切にするのか。それには純粋に相手に何かをしたいという気持ちだけではなく、裏がある。
じゃあその裏って何だろう。恐らく承認欲求はあると思う。
私に対して親切にすること。それはつまり私に承認してもらいたいという願望から来るのだろう。私にいい人だと思われたい。親切だと思われたい。私から感謝されたい。そう思ってやっているその根底にはきっと『好意』がある。多かれ少なかれ、私に対して好意があるからそれをするのだ。
(その考え方は無防備過ぎるから、いつか詐欺被害に合うよと旧友に言われる)

だから私は人に親切を受けるのが好きだ。相手が自主的に言い出してきた親切は断れない。

それに、人の親切を断ることは、人の好意を拒絶することのように思うからだ。
私はスーパーのレジで働いているが、商品を袋に入れてあげるときに『自分でやる!』と言ってカゴごと引ったくるお客さんよりも、『ありがとう』と言って素直に受け入れてくれるお客さんの方が嬉しい。後者の方に好感を持つ。


そもそも私は断るのが下手だ。ちょっと嫌だなって思っていても、これならまだ我慢出来るなと思って受け入れてしまう。そして我慢の限界になったときに、相手のことを考えずに思うままに拒絶する。


私は奢られるのも苦手だ。私は一人で行ったことのない食べ物屋さんに行けてしまうタイプで、その先の常連さんに気に入られて奢られることがよくある。断っても相手が食い下がるので、本当にお金を払いたいのだろう。『お金』という好意を私はどのように受け取っていいかわからない。そのお金を払ってくれるのは私に対しての好意で、私にいい人だと思ってもらいたいからそれをするのだろう。
確かに、相手が払ってくれた分のお金は私の財布からは出ていっていないので、金銭的には助かっている。しかし、『金銭的に助かった』という事実しかどう頑張っても残らないのだ。以前から好意を持っている相手にはそのまま同じ好意を持っているし、そんなに好きではない相手に、奢ってくれたことで好感を持つなんてことはまあない。つまり奢ってくれても私の心に響いていないのだ。多分奢ってもらうことが私にとって心から嬉しいことではないからだろう。

私の為に600円のお酒を奢ってくれても、その600円分私の心を買うことは出来ないのよ。その600円があればプリパラ6回出来るのよ。あなたは今無駄遣いをしているのよ。私はちゃんと感謝なんて出来ないんだからって思う。


相手がくれる親切な行動そのものが嬉しいというよりも、その行動の根底にある私によく思われたいという欲求が嬉しいだけなのだ。でもその親切な行動を受けると、私は相手の中の『貸し』を作ってしまう。私は相手に何も返せない。もしいつか相手からの 『貸しの請求書』が来たらどうしようと思う。相手の親切を受けながらも、私は心からの恩義を感じることができず、むしろ自らの首をじわじわと絞めているような心地になる。受けた全ての親切たちが相手にとっての『してあげたポイント』に加算されているのかと思うと怖い。
それでも私は断れない。人の親切を受けて、笑って『ありがとう』と言うのだ。
人の親切を受けることが私の好意であり親切なのだ、なんて言うと凄く性格悪そうだな。まあいいか。