集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

ヒトリスト断念

少女の頃は太宰治の女生徒を読んでああこれは私だ、と思った。自分に自信がなく、それでいてこっそりと薔薇の刺繍を隠し持っている彼女の姿が私と同じだと思った。あの文章はまるで頭の中の考えてることがとけでたみたいに雑多で、少女らしくて素敵だった。
今読んだらあの頃のような感動はなくて、そんなにピンと来なくなってしまった。いっそ少女のままで死にたかったあの頃を通りすぎた私は、大人になった。
先日バイト先の人に聞いた。いつからおばさんと呼ばれるようになるのでしょうと。バイト先の人は言った。25歳を過ぎたら言われるようになるよと。ああそうか、私のリミットは5年なのだな。短いね。きっと春休みのように有効活用できずに矢のように過ぎていくのだろう。
ずっと少女でいたかったけど、私はもう少女ではないし、同じようにきっと5年経ったら精神までもおばさんになって、おばさんである自分を受け入れるのだろうよ。そう思うと恐ろしいね。

今しかできないことってきっといっぱいあるんだろう。後で若気の至りだと笑って許してもらえるようなことだとか、失敗。私には成功体験も少ないが失敗した体験も少ないように思う。


高校生の頃、ヒトリストになりたかった。
ある日吉野家に一人で颯爽と入っていく女の人を見て、惚れた。あああんな風に一人で吉野家に入っていくのね。なんて自信に満ちていて、優雅で、一人であることに何の後ろめたさもなく清々しいのかしらって。

彼女のように一人を美しく着こなせる、一人を楽しく過ごせる、ヒトリストになろうと考える。
一人で行ったことのない店へ行く。敷居の高いお洒落な所とか、男性客ばかりのラーメン屋とか。一人でカラオケをする。みっちり三時間。一人でしりとりをする。みっちり六時間。二時間を過ぎた頃から言葉が続かなくて苦しくなった。一人でプリクラ。自分の横の空白によしこという架空の友達の絵を描く。
一人でやることに難易度が高いものを次々とクリアし、自分のヒトリストレベルを上げていった。

大学生になって一人暮らしをしてしばらく経つと、一人というものに対しての考え方や立ち位置が変わった。
今私にとって一人とは日常で、普通で、当たり前で、まるで皮膚のように自らに張り付いているものだ。
一人を楽しめたあの頃は一人が非日常で、当たり前の事じゃなかった。学校にいけば、カーストは低いものの自分が集めて作った世界があって、特別な女の子がいて友達がいて、家に帰れば父と母がいた。一人でいることを楽しめていたのは本当に私が一人ではなかったからだ。

一人は何の面白味も魅力もない、ふつーのことだ。むしろ一人が嫌になってる。
当然一人を楽しもうという気持ちがなくなる。一人でいるのにお金を遣うのが勿体ないように思うし、一人で高いものを食べてもそんなに美味しいように思わないし、誰かと過ごす時間にお金を遣いたいと思うようになった。

一人で旅行に行っても全然不安な気持ちにならない。日常の延長のように感じる。もう私は遠いところに住んでいるのだ。だからそこから遠いところにいたってそれは大したことではないのだと。


群れなければ生きていけないなんてと思うけれども、ずっと私はそのままなのだ。学校では寄り添える誰かがいなければ、所属しているところがなければ寒さに凍えて死んでしまうだろう。何かに属しているという安心感はとても強い。
今は何にも私は属していないで、宙ぶらりんだ。そして、一人が嫌になっている。見苦しいだろう。