集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

過ぎ行く他人と快速電車

鳥取へ帰る友人Sと三宮で別れたあと、電車に乗った。そのままうちには帰らずに途中の駅で降りて一人でラーメンを食べた。その駅はラーメンの激戦区なのかラーメン屋さんが隣り合わせて何店舗もある。文明の利器『食べログ』を駆使して評価の高い店に決める。頼んだのは海老ラーメン。海老のビスクスープみたいに濃い海老の味のするスープが特徴だ。それでいてあっさりしているので美味しかった。 

食べ終わったあとまた電車に乗る。快速急行。自動ドアが開いて、私は車内に足を踏み入れる。席を探していると、男の人が自分の横の席に置いていた荷物を退けてくれた。人の顔を見るのが苦手なのでその人の顔をよく見たわけではなかったが、そのスマートな所作から『この人はイケメンだ。』と判断した。彼の隣に座る。

数駅の間、私は何となくそわそわしていた。ああ、今日にんにくたっぷりのラーメンを食べようかとも悩んだけど海老ラーメンでよかった。もしにんにくたっぷりのラーメンを食べていたら、香しいまでのにんにくスメルを放っていたかもしれない。私があの店の海老ラーメンを選んだのは、神の采配ではあるまいか。 

にしても私手荷物多すぎないか。カバン一つと、コンビニで買ったサラダとミックスナッツが入ったレジ袋と、タイガーズホール、つまりとらのあなの黒いビニール袋。中身は好きな作家の二年ぶりの新刊。ちょっとアレな本。 えっ大丈夫だよねこの黒いビニール袋を見てとらのあなで買ったってバレてないよね。あの人の目線が心なしか、私の手荷物の方を見ているような気がする。いや自意識過剰か。黒のビニール袋から、アレな本から引き離した透明なセロファンが外に出ていた。叫び出したい気持ちを堪えてガサりと袋のなかにセロファンを突っ込む。物音を立ててしまった。多分そのセロファンを見て何とも思わないだろうけど、アレな本を包装していたセロファンだと思うとその人の視界に入れるのが何となく申し訳ない。

あれ、その人の顔どんなのだっけ。横を見てもいいのだろうか。しかし私はチラ見をするのが超下手だ。ガン見になってしまう。顔ごと対象物の方に向けてしまうから、露骨に見ていることがわかられてしまう。 さっき喫茶店で横の人の食べてるものと横の人をじろじろ見てたら友人のS氏に 『まじまじ見てて怖い。これ雫ちゃんが女性だからまだ許されてるけどもし男女逆転してたら『事案』ですよ『案件』ですよ』とたしなめられたばかりだ。
首と顔面は定位置に固定して動かさずに眼球だけを動かすことを心がける。横顔だけがちらりと分かった。服装はお洒落で、手が綺麗。耳にピアスは開いていない。あと細身のジーンズを綺麗に履きこなすような、細い脚をしているということ。 そして何より彼に好感を持ったのが、彼がスマホをいじっていないことだった。普通、一人で電車に乗っているとき、皆居心地悪そうにスマホをいじっている。 しかし彼は窓の外を眺めて、何かを見ている。彼はもしかしたら私と同じ時間を共有しているのかもしれないと、勝手に期待した。 

私も脚を伸ばそうかな、と思って脚を伸ばし、その数秒後に慌てて突然引っ込めた。いけないいけない。靴って見てる人は見てるって言うし、爪先の剥げて磨耗したこの歩きやすい靴を見たら、今隣にいるこの女の生活感が急に襲ってくるだろう。いけないいけない。 隣の人は不審そうにしている。さっきから私、挙動不審だ。席を譲ったことを後悔されてはいないだろうか。

私はこの隣の人が何をやっている人なのかも幾つなのかも、どこの駅で降りるのかも知らない。向こうだって私のことを知らない。もう二度と同じ電車の同じ車両の同じシートに隣り合わせて座ることなんてないだろう。私は彼の生活に何も介入することなんて出来ないし、彼もまた私の生活に入ってこない。一定の距離感で隔たれたままどうにもならない。彼はもう二度と交わり合うこともない他人だ。 なんという心強い安心感と寂しさを与えるのだろう。当たり前のことを改めて意識した。 彼だけじゃない。こうやって交差して過ぎ行き、もう二度と関わることも知ることもない他人は一体何人いたんだろう。またそんな見知らぬ彼らの時間に私が介入できることなんてあるのだろうか。彼らはずっと赤の他人のまま私の前を過ぎ行くばかりだ。 

 私の降りる駅が近づいてきたので立ち上がって、ドアの方へ行った。プラットホームに降り立ったとき、動き始める電車の窓越しに彼の顔を遠慮なく直視した。やっぱりあの人はイケメンだった。 別れるときにようやくその人の顔をよく見たことが、私の他者との関係の象徴のように思えて、何にも言えなくなる。


花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ