読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

横光利一 春は馬車に乗って 感想文

「春は馬車に乗って」の魅力を三点にまとめるとしたら

①余裕と冷静さを失っていく夫の変化

②夫婦の関係性の変化

③スイトピーがもたらす効果

 

であると私は考えている。

 

最初の場面で印象的なシーンがある。妻が松を見ているとき、夫は亀を見ている場面だ。同じ景色を見ているのに違うものを見ている二人の関係性にも触れられているかのように感じられる。

この頃の夫はこう考えていた。

『彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。(中略)彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか。――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。』

自らの苦痛に対してどこか客観的なような、苦痛を味わい尽くそうというような余裕すら感じられる。

 

場面が変わり、夫は妻の好物の鳥の臓物を探しに行く。私は最初読んだとき鳥の臓物など病人が食べる物として思い浮かばないので驚いた。血生臭く、野性味と「生」に溢れたものに対して、妻は食べたくて仕方がないという「食欲」を見せている。

妻は「あなたは私のことなどどうでもいいのだ」「仕事のほうが大事なのだ」といった嫌味を口にする。そんな妻の嫌味に対して時折夫は逆襲しようとする。感情的でありながら、病人特有の聡明さで核心をついてくる妻に対して、夫は冷静かつ論理的に相手を論破しようとする。

病床に臥せる妻に他のものは何もなく、夫しかいないのである。だから少しでもぞんざいに扱われたように感じると不平を言いたくなるのだ。しかし夫は妻の「檻の中の理論」を理解することが出来ない。

確かに二人が生活していくためには現実的にお金が必要であり、そのお金を稼ぐためには夫は働かなければならない。夫は妻のいる内側の世界と、自分がお金を稼いだり社会的地位のある外側の世界とどちらにも身を置いている。他のものがない妻にとって、夫が外側の世界を逃げ道や息抜きに使っているように感じられ、夫の冷静な態度に対しても苛立ちを覚えている。

 

臓物を食べたくて仕方がなかった描写から一転して、妻は臓物を食べたがらなくなり、それよりも聖書を読んで欲しいとリクエストするようになる。相変わらず妻は夫に対して嫌味を言い続けている。それに対して夫は、妻が元気だった頃に受けた嫉妬よりも病人から発せられる言葉のほうがやわらかで、今のほうが幸福ではないかと現在の生活に「余裕」を見出す。その笑みを妻は見逃さず、「いいわ、あたし、あなたが何ぜ笑ったのかちゃんと知ってるんですもの」と苦々しそうな態度で口にする。

 

そんな「余裕で冷静な態度の夫」と「それに対していらだちを隠せない妻」の関係性に変化が見られるようになる。

妻の看病と寝不足、そして看病にかかるほどに仕事ができなくなり、治療費や生活に困るといった現実が夫を疲弊させていく。

 

『「あなた、もっと、強く擦ってよ、あなたは、どうしてそう面倒臭がりになったのでしょう。もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に、あたしのお腹を擦って下さったわ。それだのに、この頃は、ああ痛、ああ痛」と彼女は云った。
「俺もだんだん疲れて来た。もう直ぐ、俺も参るだろう。そうしたら、二人がここで呑気に寝転んでいようじゃないか」
 すると、彼女は急に静になって、床の下から鳴き出した虫のような憐れな声で呟いた。
「あたし、もうあなたにさんざ我ままを云ったわね。もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。あたし満足よ。あなた、もう寝て頂戴な。あたし我慢をしているから」
 彼はそう云われると、不覚にも涙が出て来て、撫でてる腹の手を休める気がしなくなった。』

 

ここで、夫が今まで見せていた余裕の仮面が剥がれる。冷静さと余裕の仮面が剥がれた夫の姿を見て妻もまた態度を軟化させるようになる。

撫でる手を止められなくなっている夫の、優しさが描写されている。

 

次の場面では、医師に「妻はもう長くない」と宣告される。それを聞いた夫は酷くショックを受け、乱れた心を整えてから妻の元に戻る。

その時に妻は黙って夫の顔を見つめ、

『「あなた、泣いていたのね」と妻は云った。』


序盤に見せていた夫の余裕のある態度は崩れ、跡形もない。泣いていたことに気づく妻が美しい。私はこの一文がとても好きだ。


『――もう直ぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
 ――しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えてしまった。今は残っているものは何物もない。』

夫は以前のような態度を取ることはなくなり、妻の言うことに対して機械的に動くようになる。そして妻は「死」を受け入れた日々を送り、夫への遺言を書き、自分が死んだ後の骨はどこに行くのだろうかと考えるようになる。夫は救いを求めるかのように、あるいは答えを明言するのを避けるように聖書を読み上げる。

二人は完全に死の準備をしていた。

 

そんな中で知人からスイトピーが届く。

『或る日、彼の所へ、知人から思わぬスイトピーの花束が岬を廻って届けられた。
 長らく寒風にさびれ続けた家の中に、初めて早春が匂やかに訪れて来たのである。
 彼は花粉にまみれた手で花束を捧げるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。
「とうとう、春がやって来た」
「まア、綺麗だわね」と妻は云うと、頬笑みながら痩せ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか」
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」
 妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。』

 

死を受け入れ暗く沈んだ二人の家に「春」が届けられ、場面は少しだけ暖かく、明るい雰囲気になる。花束では悲しい現実は変えられないし、死にゆく妻の現状は何一つとして変わらないかもしれない。しかし会話文だけでこの二人のほころんだ表情が目に浮かぶようである。冬の描写が長く続いていたところに「春」が届けられることによって読み手に小さな救いを感じさせる。また、こういった鮮やかな場面の変化は、私の好きな作品である芥川龍之介の短編小説「蜜柑」にも通じた点があるように思う。

 

冷静であろうとしていた夫が冷静ではなくなり、夫が守ろうとしている仮面が壊れていく過程が丁寧に描かれており、また死にゆくことで絆を深めていく二人の関係性も自然に描かれている。