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蛇の道はheavyだぜ

「逃げ恥」に対する複雑な感情

新垣結衣主演のドラマにより逃げ恥こと「逃げるは恥だが役に立つ」は、大ヒットした。逃げ恥の流行りようはもはや社会現象と言っても過言ではない。今年の忘年会でエンディングのダンスを踊った会社はきっと星の数ほどあっただろう。私はドラマ化以前より原作漫画のファンで、ドラマ化も楽しみにしていた。

少女漫画は少年漫画と比べて、登場人物たちの心情表現に特化した内容になっており、実写化に成功しやすい。

(勿論少年漫画原作の実写化でも面白い作品があるが、酷評されている作品に少年漫画原作のものが多いことは言えるだろう。)

原作と比較しながらドラマについて触れさせていただきたいのと、現在の社会現象としての逃げ恥に対する扱いへの困惑について書きたいと感じ筆を執った。

 

逃げるは恥だが役に立つ」というドラマ

まず最初に述べたいのは、私は逃げ恥ドラマのアンチではない。むしろ私はこのドラマは原作とは違うものとして楽しんでいた。すべてを原作通りにしろとは思わないし、原作はまだ終わっていないから同じ終わり方は出来ない。決められた話数で終わらせなければならないドラマでは、変更せざるを得ない点はあるだろう。

しかしドラマ版は二人のラブコメ要素が強く、「お仕事漫画」としての側面は鳴りを潜めていた。原作漫画ではドラマと比べて恋愛描写も非常にさらっと書かれており、ドラマ版を見た際には逃げ恥はこんなにもラブコメ話だったのか?と困惑した。しかしそれも無理もない。漫画を読むときなら抱き合っているシーンを見ても3秒ぐらいで次のページをめくっているが、ドラマならば抱き合った状態では30秒は維持され、背景にはロマンチックなBGMなどが流れる。同じシーンでも非常に「ドラマっぽく」なるのはそういうものなのだろう。このギャップは原作から入った人がドラマを見て皆感じる違和感ではないのかもしれない。しかしドラマで追加されているオリジナルストーリーからもこの作品を「ラブコメ」という要素を重視して作ったのだろうなとは思う。

またドラマ版は人によって感じ方に疑問符を残すであろう原作の部分をある程度マイルドにさせている。例えばみくりさんの思想や平匡さんの性に関するエピソードだ。みくりさんの思想を入れてしまうとどうしても説教臭い内容になってしまっただろうし、軽やかなドラマという作品に取り込むにはあれが限界だったのだろう。私自身みくりさんの思想にすべて賛成しているわけではないが、みくりさんのそういう要素を除いてしまうことに寂しさを覚える。

 

みくりさんという女性

私はみくりさんを新垣結衣が演じると聞いて最初にこう感じた。「私の思っているみくりさんよりも可愛いな。可愛すぎるな。」と。

私はみくりさんを可愛い女性だとはイメージしていたが、それはどこにでもいそうな可愛い女性だった。

仮面夫婦雇用契約という設定自体もファンタジーめいたものであるが、会話シーンなどから現実的な要素を足していた原作に対し、新垣結衣をみくり役にしていたドラマはより現実味から離れていたように感じる。

新垣結衣仮面夫婦が出来るなんて羨ましい。あんな可愛い子が家事をしてくれてあんな可愛い子と生活できるなんて夢のような話だなあ。みたいなそういう趣旨になっていた。

ドラマと原作においてみくりさんという女性像には違いがある。

それはお金に対するこだわりである。ドラマ版みくりさんも青空市を請け負うにあたって、対価のない労働を強いるのは搾取だと言っており、そういう描写が一切ないわけではない。しかし原作のみくりさんのそういった部分は薄められていたと私は感じた。またみくりさんの心理学の院卒という設定も、ドラマでは取ってつけたような役割しか果たしていなかった。ドラマのみくりさんは元彼氏に言われた小賢しいという言葉に縛られているだけで、そこまでの小賢しさは発揮されていなかった。

みくりさんの小賢しさが仮面夫婦というファンタジーを現実的にしていたし、お金のことも気にするが平匡への期待に応えたいみくりの恋愛の葛藤も原作の面白みだった。

 

ドラマならではの面白さ

ドラマになったからこその面白さも勿論あった。例えば配役である。

沼田さん役の古田新太なんかはイメージ通りだったし、原作ではさほど印象的ではなかったキャラクターが(みくりの両親や兄嫁)個性の強いキャラクターになっていたのは実写ならではな面白さだったと思う。

原作の百合ちゃんよりもドラマの百合ちゃんの方がいいと感じたのも実写(以下略)

でも風見さんを何故偽野内みたいな人にしたのかは未だに解せない・・・・

 

流行りとなった逃げ恥

私は逃げ恥がこんなにもヒットするドラマになるとは予想していなかった。何故なら、逃げ恥はそんなに万人受けするような内容ではないと思っていたからだ。しかし、みくりさんの賛否を招く小賢しい面や生々しい話を省き、ラブコメ要素に特化することで見事逃げ恥は大ヒットした。そのヒットの理由が新垣結衣の可愛らしさであることは言うまでもない。エンディングのキャッチーなダンスも話題を呼び、人気につながっている。

ドラマの流行った大きな理由が「新垣結衣」と「ダンス」であることは否定できないだろう。みくり役をぜんぜん違う人がやっていたとしたら、きっとこのドラマは成功しなかった。

しかし勿論だが原作には新垣結衣は出てこないしエンディングのダンスもない。それでも原作に魅力があったのは、結婚を仕事として捉えた斬新な視点と、みくりと平匡の間に生じているズレや誤解の描写、賃金の発生しない夫婦の家事労働にどういう結論をつけるかへの興味などである。

 

 

先述したように逃げ恥はここまで大流行するような内容ではない。しかし実際に逃げ恥は大流行している。

最近は流行の代名詞として逃げ恥が使われはじめ、私はそれに戸惑いを隠せない。

君の名は。も逃げ恥も見ないそんな自分が好き」みたいな、自己表現の材料としても使われ始めている。すごくもやもやしてしまう。いやいやちょっと待ってって言いたくなる。そういう人にこそ向いている漫画なのに。

もし流行る前に手に取っていたら面白いと感じたかもしれないのに、もう二度と手に取られることがないことに対する何とも言えない気持ちからだろうか。それとも流行りものとして捉えられるハードルだろうか。「こんなに流行っているのに面白くない」というような、評価に流行りが加えられてしまうからだろうか。私がその作品を好きなことに流行っているかどうかなんて関係無かったのに、好きと言いにくく感じてしまうからだろうか