集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

ゆめちゃん

わたしが小学一年生の頃のことです。担任の先生に『ゆめちゃん』の作文を書いてくるように言われました。ゆめちゃんとはわたしが飼っているハムスターのことです。
わたしの小学校では毎年作文集が作られ、一学年に一人が代表で作文を書き、その冊子に記載されるのです。
そして、以前からゆめちゃんを可愛がっていることを知っていた先生は、わたしを選んでくれたのです。
わたしは先生が自分を選んでくれたことが嬉しくて、たくさん色々なことを書きました。ほんとうにたくさん。必要以上に。
書いていくとどんどん発展していって、嘘も本当もごちゃまぜの作文が出来ていました。
ゆめちゃんがケージの外を出て冒険をしたり、『ちめちゃん』という、わたしが生まれる前にお母さんが飼っていて今はもう死んでしまっているハムスターと恋をしたりする、そんな内容になっていました。それは嘘というよりもわたしの願望でした。
それはノートの三分の一ぐらいの長さになっていました。原稿用紙にすれば10枚ぐらいになるでしょうか。自信満々でそれを先生に提出しました。
先生は『あなたはゆめちゃんがだいすきなのね』と苦笑されました。わたしはそれをほめられたと受けとり、いっぱい書いてよかったと喜びました。

それから数ヶ月が経ちました。作文集ができあがり、一人一人に配られました。わたしはうきうきして自分のページを見ました。しかしそれはとても短くまとめあげられ、ほとんど自分の言葉ではなくなっていました。おそらく先生がそうしたのでしょう。
その文章はわたしが書いた文章よりもきれいにまとまっていたし、ちゃんとゆめちゃんのことがだいすきであることが書かれていました。だから悪い気はしませんでした。でも少しさみしいような、なんともいえない気持ちになりました。小学一年生は、原稿用紙2枚分載るのだといまさら思い出しました。
冊子をぱらぱらとめくった時に、小学三年生の男の子の作文のタイトルが目に止まりました。『天国へ行ったコガネムシ』です。わたしはなんてすてきなタイトルだろうと思いました。でも内容を読みたいとは思いませんでした。内容を読まなくても、だいたいそのタイトルだけでわかりました。そして、どうして自分がこの作文集に選ばれたのか、子ども心に察しました。
『子どもが動物と触れあうことで生き物の生や死を理解するような、そんな内容をわたしに書いて欲しかったんだな』って。


そんなことハムスターを飼わなくても、わたしは知っていました。おばあちゃんが分けてくれるポインセチアの鉢植えも、シクラメンの鉢植えも、水やりをさぼればすぐに枯れてしまいます。でも、水をちゃんとあげていてもいつかは枯れてしまいます。わたしは何度もお花を枯らしたことがあります。だからずうっと前から、そんなことは知っていたのです。
ゆめちゃんだって、寿命が三年なのも知っています。ハムスターのことについて書いてある本を何冊か読んだことがあるからです。わたしのゆめちゃんは、テレビの中のハム太郎みたいに何年も生きることはできません。寿命で言えば、ゆめちゃんは一年後には死んでいるのです。

ゆめちゃんが死んで、もしそれを作文に書いたら、きっとみんなの望む作文になるんだろうなって思いました。そうしたらみんなほめてくれるのかな。

なんて、そんなことを考えているわたしのことを、きっとみんないやな子だって思うだろうな、って思いました。

わたしが小学二年生のとき、ゆめちゃんは死んでしまいました。ゆめちゃんはわたしの誕生日の日に死んでしまいました。わたしの誕生日に死んだのは、罰なのかもしれません。ゆめちゃんがまだ温かかったことと、いっぱい泣いたことは覚えています。でもほんとうに悲しくて泣いていたのか、自分がだいすきだと周りにアピールしていたゆめちゃんが死んだことを、みんなに同情してもらいたかったのか、自信がありません。

でも結局、ゆめちゃんの死について作文にすることはありませんでした。