集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

名前

私の本名は有名な漫画のキャラクターと同じ名前である。最近は全然言われなくなったが、小さい頃自己紹介したときには『国民的漫画のキャラクターと同じ名前だ』とよく言われた。
人が私のことを紹介する時もまた同様で『国民的漫画のキャラクターと同じ名前の○○ちゃん』と言われた。『国民的漫画の(以下略)』というのは自分の名前においてもはや枕詞に等しかった。耳にタコだ。そしてそれを聞くと印象に残って覚えやすいのか、一発で名前を覚えられてしまう。『国民的(以下略)の○○ちゃんだ!』と。なんだかそれがたまらなく恥ずかしかった。

子供の頃に自分の名前の由来を調べる授業があった。故に私は初めて父に自分の名前のことを聞いた。
『この名前は元アイドルの○○の名前から取った。ちゃんと姓名判断師にもお金を払って名付けてもらった。』
と父は言った。
『姓名判断師ってどんなことをするの?』と聞いたら、
『自分が名付けようと思ってる名前を三つあげると、姓名判断師が「その三つの中で一番気に入っている名前はなんですか」と聞いてくる。「○○です」と答えると、「じゃあそれにしなさい」と言ってくる。』と幼い私に説明してくれた。
私はこれを聞いて、姓名判断師というものはなんていい加減で適当なのだろうと思った。こんな労働に対して金銭が発生するなんてと。
『じゃあ、お父さんは元アイドルの○○のファンなの?その人から名前を取るぐらいだし』と聞くと、
『いや、別に。』と言われた。ショックだった。
私は自分がファンでも何でもない元アイドルの名前をつけられ、その名前において姓名判断師にいい加減な仕事をされたぐらいのエピソードしかないのか。友達なんかは『生まれたとき未熟児で体の弱い子だったから、強く健康に育って欲しいと願って』だとか、名前の一文字一文字に願いの込められたものを名付けられているのに。私の名前にそういうエピソードはない。名前の漢字に特に何か願いが込められている訳でも、こんな子になって欲しいという願いもなく、そして字画にこだわりがあるわけでもないらしかった。

クラスの中で私の名前の由来の文章が一番淡白で短かったのを覚えている。

あと古風で落ち着いた名前だったのもあって、『おしとやかな名前なのに全然おしとやかじゃないね』なんて友達にからかわれていた。これに関しては私もまあそうだなあと思っていたので、特に傷つくことはなかったが、『ああ私は自分の名前にふさわしい人間ではないのだな』と漠然と子供心に思っていた。
だから私は少女時代、この名前をあまり気に入っていなかったのである。

しかし成長していくにつれ、少しずつこの名前が気に入ってきた。今では自分の名前がとても好きである。
私がこの名前を気に入りだしたのは、この名前の利便性が高いことに気付いたからだ。
思えば私の名前は一度も読み間違いをされたことがない。読み方を聞かれたこともない。中性的な名前ではないので、性別を間違えられたこともない。
しかも、そこそこ漢字に画数があるから字のバランスがとりやすい。字があまり綺麗じゃなくてもちょっと綺麗に見える。だから私は自分の名前だけは綺麗に書くことが出来る。

自分の名前を好きになったエピソードがもうひとつある。
香織という名前が香でも同じようにかおりと読むように、私もまた一文字でも二文字でも同じ読みの出来る名前だった。字のバランスの取りやすさで言えば、二文字よりも一文字の方が取りやすいなあと思っていたので父に、
『どうして私の名前を一文字にしなかったの?そっちの方が字のバランスがとりやすいしかっこいいよ。』と言ったことがある。
『一文字の名前にしようかと思った。けどもし下の名前を一文字にしたら、将来お前が一文字の苗字の人と結婚したら中国人みたいな名前になるだろ。』と返ってきた。

それを聞いて私は嬉しい気持ちとおかしい気持ちに満ちた。父は生まれて間もない私を見て、将来私が結婚することまでを考えてくれたのだ。
私がいつまでも子供ではないことを知っていて、ちゃんと大きくなったときのことも考えて名付けてくれたのだ。それは名前というものが一生連れ添うものだと知っているからだ。現に私の名前はおばあさんになってもしっくりくる。

そして、幼少期は姓名判断師について『いい加減』だという風にしか思わなかったが、父にとって『姓名判断師にお金を払って名前を見てもらう』という行為そのものがとても大事なことだったのではないか、と最近気付いた。

父は三人兄弟のうちの次男で、上に兄がいて下に妹がいる。兄は長男だったため姓名判断師に名前を決めてもらった。妹も初めての女の子で両親が舞い上がっていたから姓名判断師に名前を付けてもらった。しかし父は『こいつは○○家の次男坊だから○二でいいだろ』と三人兄弟のうち一人だけ姓名判断師に名付けて貰わずに、適当に名付けられた。今でも少しそれを気にしているらしい。だから『姓名判断師コンプレックス』のようなものがあったのではないかと推察する。私の名前をちゃんと姓名判断師に名付けて貰ったということは、父にとって私を大事にすることだったのではないかと思う。

名前の由来そのものに大きなエピソードはないが、私の名前は父にちゃんと考えられて、ちゃんと愛されて名付けて貰ったものだ。私が一生寄り添うこの名前は、親の愛情を感じることの出来るいい名前だ。

最近人から『○○という名前は稲森に似合っている』と言ってもらえることが増えた。名付けられて十年目よりも、名付けられて二十年経った方が、その名前に寄り添う時間が長い分だけそれにふさわしい人間になれるのかもしれない。
『全然名前とイメージが合わない』と言われていた私が、『似合っている』と言われている。言われると未だに『お前マジか』と思ってしまう癖は抜けないが、それでも嬉しい。