集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

瞬く熱帯夜

一人暮らしをする前は、熱を出すのは嫌いじゃなかった。学校を早退出来るし、皆心配してくれたからだ。 熱を出しているときだけは親はとろけるように甘く優しくしてくれたし、私はとろんとただ素直に甘えていればよかった。

ちょっとしたワガママも聞いてくれたし、食べたいものを作ってくれた。私は風邪をひいているときに食べる母の作った卵雑炊が好きだった。葱とふわふわの卵だけのシンプルな具材が入っていて、ヒガシマルのうどんスープのもとを使って作る。 熱に火照っているときに母の冷たい手がおでこに触れる感覚も好きだった。
 
 一人暮らしをするようになってから、風邪をひいてもいいことなんか何もないなって思うようになった。熱を出すと気弱になってとても辛くなった。弱音ばかり吐いてしまう。
『咳をしても一人』という言葉があるが、それをひしひしと痛感する。
『風邪をひいたら卵雑炊を作ってくれた親はいないのだ。しんどくても誰も何もしてくれないから自分でやるしかないのだ。』という気負いだけがくるくる回る。物凄い孤独感に苛まれる。 
 
昨晩微熱を出した。明日の朝には下がっていて欲しいという思いも虚しく、微熱だった。熱があがりかけの状態が最もしんどく、頭が重くてベッドから起きられない。今日はアルバイトを七時間任されている。今月一人辞めて、さらに一人今インフルエンザで休んでいる。人手が足りなくて七時間を任されているのに、『休みたい』と言うのはとても心苦しかった。 
 
風邪を引いた心当たりはいくらかある。食生活、睡眠不足、クラブで薄着で外で待たされたこと。 スーパーに電話をすると、店長に繋がれた。正直他の人がよかったなと思いながらも、熱があるので休みたいという旨を伝える。 
店長は私に聞いてきた。『何時からや?』と。 
『10時から17時まで。七時間です。』
 店長は『人手が足りないから七時間任されてるんじゃないのか』『今日困るねんけど』『どうしても来られないのか』『少しなら働けないか』と食い下がってきた。正直、もっとスマートに休ませて貰えると思っていたので面食らった。 
『出来ないです』『無理です』と言うのが辛かった。アルバイトであっても、七時間を任されているのだから責任はある。私の自己管理に問題があって風邪をひいたのだから、そんなのスーパーには関係がない。風邪をひいたら無条件に甘やかしてもらえた時代はもう終わったのだ。『風邪をひいたのは自己責任』の時代なのだ。 『お大事に』の一言もなく、『まあわかった。月曜日には出れるように治しといてな』という言葉で電話は終わった。 
ただでさえ風邪で弱気になっている時に、店長の言葉たちは私の心に追い討ちをかけた。 私を責めたり、来させようとする言葉よりも、もっと言わなければならない言葉があったはずだと思う。 
 
『病院に行ってインフルエンザかどうか検査をしたのか』を聞くべきではないのか。 万が一私がインフルエンザだったら、他の店員やお客さんにうつして潰してしまうことを考えないのだろうか。インフルエンザではなくただの風邪だったとしても同じだ。 私のことはいいが、他の人のことをこの人は何も考えていない。ただこの人は『今日私に休まれると困る』という、『今日』のことしか考えていない。人のことをちゃんと人間扱いできない、他者への共感性の低い人物なのだと軽蔑した。 私は、熱を出していても無理をしてバイトに行くことを美談だとは思わない。他の人にうつすことを考慮していない、自己満足の行為に思うからだ。
しかし、私はすぐにもう一度電話をかけ直し、店長に繋いでもらった。今日休むことが辛くて耐えられなかったからだ。彼の第一声は 『昼からこれるか?』だった。相変わらず、本当に聞かなければいけないことを聞いてこない。呆れた。 『提案なのですが、まずインフルエンザかどうか調べてもらってきて、そのあとでスーパーに行ってもいいですか。流石に当初の7時間は働けないので、短くしてください。人手が足りないの分かってて流石に私も休めないです。』と言った。
 
こんなの、私の意思じゃない。ただ耐えられなかったから働くのだ。責任感に基づいた行動でもあったが、中にはどす黒い感情があった。 『こんなの、私の意思じゃない。だから万一他の人に風邪をうつしてもそれは私のせいじゃない。無理矢理来させる判断をした店長のせいだ。私はバイトに行くのではなく、細菌テロを企てるためにスーパーに行くのだ。』と。 私は店長の態度が気に入らなかったからスーパーに行くのだ。ある種の反骨精神だった。 
 
一月三日はどこも内科が休みで、その日やっている病院は家から二キロ離れていた。そこまで自転車で頑張って行く。 とてもその病院は混雑していて、診察に二時間待った。インフルエンザか調べてもらったが、陽性反応は出なかったので安心した。(インフルエンザでも反応が出ないことがあるので、インフルエンザではないと断言はしないと先生は言っていた) スーパーに着くと、私が来たことにレジの責任者や副店長は驚いていた。 『大丈夫か』『インフルエンザかどうかは調べたのか』『1月3日にあいている病院はあったのか』など、私の聞いて欲しいことをちゃんと聞いてくれた。 『しんどくなったら無理をせずに言ってきて』という優しい言葉をかけてくれた。 あのときの電話の応対を店長以外の人がやってくれてたら、私はバイトを休んでいただろうなと思った。 
バイトは1時半から5時半まで。1時半から2時ぐらいまでは体が温かい感覚があって、そんなに辛くなかったが3時ぐらいが一番しんどかった。ぶるぶると寒くなったような心地がした。 『大丈夫?』と聞かれたとき、力無い声で『大丈夫です』と言った。ちょっと無理をすれば出来ることは大丈夫に入ると思った。風邪なんか何回もひいてきてその度に治してきたのだから、大丈夫。甘えたことを言ってはいけない
 
お客さんも私の体調を慮ってくれた。私は嬉しかった。 
買い物をして、家に帰ったらしんどくて何もする気が起きなくなった。熱を測ったら前測った時より上がっていた。もみじ饅頭を一つ食べ、林檎一つ丸かじりしたら、後はこたつで死んだように眠った。 
真夜中に目が覚めたとき、途方もない空しさに襲われた。いい歳して泣いた。じわじわと滲むような涙だったが、口の中まで塩辛かった。頭が芯から熱くなって、熱が上がっているような感覚があった。 
風邪なんかで泣くなんて駄目だなあ。私はもう二十歳で、成人で、風邪は自己責任で、誰にも甘えちゃいけないのに。もっと一人で生きていく強さがなければいけないのに。私にはまだ子どもの頃の甘えた気持ちが残っているのだ。 熱を測ったあと、また眠った。
(今日高熱が出たので病院に行ってインフルエンザか調べたら、陽性反応が出ました。)