集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

告別式

告別式当日は隣保の人にも手伝ってもらいながら受付を行う。隣保の人は九時半に来ることになっている。もし親族より隣保の人が先に来るなんてことがあったら面目が立たない。朝早く起きて葬儀会場に向かう。

控え室に着くと、叔母の娘がいた。夜中の一時か二時ごろに到着したらしい。やっぱり綺麗。三年前に見たときよりももっとずっと洗練されていた。

朝ごはんに、葬儀会社の人が用意してくれた仕出し弁当を食べる。朝から揚げ物の入った、ボリュームあふれるお弁当はなかなか食指が進まなかった。特に伯父は喪主のプレッシャーから胸がいっぱいで、一口も食べられない様子だった。

「不味いから残してるみたいで悪いなあ」と言っていたので、

「それだったら筑前煮だけ食べたい」と申し出て、伯父の弁当の筑前煮をかっ食らう。我ながらすごく浅ましいと思う。

その時に、私がゴーストライトした親族代表のあいさつの文章に不具合がないか葬儀会社の人に見てもらう。その後で、祖父の弟にも見てもらった。

 

隣保の人たちと協力しながら受付を行う。引き続き私・遠縁の親戚・B兄の三人と、隣保の人が五人。

昔は会葬御礼のお礼の品の中に礼状が入っていなかったので、逐一入れなくてはいけないため人手が多く必要だったようだが、今ではあらかじめそれが入れてくれてあるので、正直そんなに人手は要らなかったように思う。


こんな風に皆で集まれる機会はそうないから、家族の写真を撮ろうよとB兄が提案する。葬儀会場の外に親族集合。(その間受付を変わってもらっていた)

母方の祖母から「叔母の娘ちゃんの写真を撮ってきて欲しい」と頼まれていたので、叔母の娘を撮る。

「霊柩車の前で決めポーズするのすっごく恥ずかしい」と言いながらノリノリで彼女はやってくれた。その姿を見ながら伯父が「俺も一緒に写りたい」と言う。

「私も一緒に写りたいです」「なら三人で撮ってもらおうか」ということになり、三人の写真を撮ってもらう。

長男・次男の娘・長女の娘という奇妙な組み合わせの三人だったこと、その時に伯父の右胸に「喪主」と書かれた花飾りがついていたこと、しかもスリッパのまま外にでてきていたことなど、今思えばくだらないことだったのだけれど、皆で笑った。

私はそのとき、皆と仲良くしていた昔に戻れた気がしてとても嬉しかった。でもこんな風に皆集っているきっかけがお葬式というのが複雑だった。

その後、いとこたちの写真と、親族全員が集合した写真を撮った。モデルをやってるだけのことはあり、叔母の娘の脚はとても綺麗で膝から下が長く細い。顔も私よりも一回りも小さい。後でその写真を見たときに「これがプロと素人の差か・・・」とひしひしと思った。なんという公開処刑

叔母の娘は勿論だけど、A兄もB兄もとても器量がいいしA兄の嫁も美人だ。お葬式なのに、喪服に身を包んでいるはずなのにとても華やかな感じがした。

写真撮影を終えた後、受付の仕事に戻る。お通夜ではあまり香典はなかったのだが、お葬式の日になるとすごい。ラッシュだ。少し手伝った後、隣保の人に「残りはやるから」と促されホールの中へ。

伯母が一枚の紙を見せてくれた。「ねえ、おじいちゃんの戒名ガンコやって」と笑いながら。

その紙には「敏昇清巌居士(ビンショウセイガンコジ)」と書かれていた。

そうね、おじいちゃん頑固な人だったものね、と私と母も笑った。二日目になると、TOSHIBAの大画面にさして気にならなくなっていた。

 

告別式が始まった。おじゅっさんが入場する。その間参列者は頭を下げ続けなければいけない。おじゅっさんが真言(僧侶は葬式用の真言を読んでいる。参列者の真言とは異なる内容である。)を読んでいる間、参列者は真言を読む。

 

 

 

参列者の数は百人を越えていて、七人はホールの中に入りきらず、ホールの外で画面越しに見ていたらしい。それだけの人が来てくれたことが本当に嬉しかった。 
順番にお焼香が終わったあと、祖父の弟の名前が呼ばれた。親族代表のスピーチをするのだ。
彼は遺影(TOSHIBA)の前に立ち、私の作った台本を一瞥した後自らのポケットにしまった。 そして大勢の参列者を前にしてぽつりぽつりと自分の言葉を紡ぎだした。 
『本日は僭越ですが親族を代表して私がご挨拶をさせていただきます。 ○○(祖父の名前)は五人兄弟の二男で、私が三男でしたから、幼い頃はよく兄と張り合っていました。
 私と兄は同じ会社に入りました。その頃は終戦後でしたから、何もすることがなかったので、よく二人で山へ行きました。 ある時、遠くにある木に実がなっているのが見えたんです。
「あの木に梨が生っている」と私が言うと、 「あれが梨な訳がない。ハンバミの実や。」
って言うんです。 どちらが正しいかと思いその木に近づいてみると、やっぱり梨だったんですよ。
それで勝ち誇って兄に「ほら、梨だった」と言うと、 
「それでもわしがハンバミや言うたらハンバミなんや!」って認めなかったんです。 昔から頑固で、弟に負けたくない人でしたからね。』 
祖父を知っている参列者たちは、そのエピソードに笑いだした。そしてそっと『ああそんな人だったなあ』と涙を溢していた。

 私は祖父の弟が自分の言葉で考えて、自分だけが知っているエピソードを語ってくれたことが嬉しかった。終戦後一緒の会社に入ったことなんか、父や伯父すらも知らない情報だった。(祖父の弟はその後転職している) 私の考えていた文章をそのまま言うよりもよっぽど名文だったと思った。結果彼はほとんどを自分の言葉で言い、最初と最後の儀礼的に必要な部分だけ私の言葉を使っていた。

出棺の時が来た。最期のお別れ。 親族は皆泣いていた。私も泣いていた。 
私の知らない女性の参列者が号泣していた。私にとっては知らない人だけど、でもこの人はおじいちゃんのことを知っていて、泣いてくれている人なんだ。そう思うと嬉しくてもっと泣いてしまった。 
棺に花と、生前使っていたものや好きだったものを入れていく。蜜柑、柿、甘納豆、大福、桜餅、数珠、右手に釣竿、左手には杖、『わかば』の煙草。そして三途の川の渡し賃。 
遺族の一人一人が言葉をかけていく。私は伯父が『ありがとう』と泣きながら言っていたのを見て涙が止まらなくなってしまって、めちゃくちゃに泣いていた。泣きながら幼いとき過ごしたおじいちゃんとの思い出を思い出していた。もう泣くのに夢中になっていて他の人の言葉が耳に入ってこなくなった。 私も祖父に最期のお別れの言葉を勢いに任せて言った。 
『おじいちゃん、覚えてる?一緒にマリンワールド行ったとき、釣りのところで、こっそり胸ポケットから金の釣り針出して係の人に怒られたことあったよね。 これも、覚えてる?アドベンチャーワールドに行ったとき。おじいちゃんが 「雫こっち来」って言って私を綺麗な花畑のところに誘導したの。何かなって思ったら、「私と二人で写真を撮りたい」って。嬉しかった。』
最後に祖父の頬に触れた。やっぱり底冷えするほどに冷たかった。 
そして祖父は霊柩車へ運ばれていった。

『お前凄いな。お前につられて参列者みんな泣いとったぞ。お前は中国の泣き女か。俺も雫につられて泣いてもうたわ。』
と涙目の父に笑いながら言われてしまった。 『せやろ。私泣き女になれるやろ。』
って私も笑いながら言った。ハンカチを持ってくるのを忘れたと言うと、父が呆れながらハンカチを貸してくれた。