集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

さらに前よりもっと生々しい話 1

私は処女です。二十歳にして。よく処女のことを、攻められても落ちない城』といった喩えかたをしますが、私の場合、『人々から忘れ去られ誰からも攻められることがなかった城』って感じです。特別守ろうという意識や意図があったというよりも、単純に『モテないから』という言葉が適切です。 

このブログを読んでいる人は、筆者である稲森雫に対してどんな人物像を持っているのでしょうか。 妄想力が豊かで、じめじめと内向的な性格を持ち、それでいて他人に対しての攻撃性もあり、悪人とは言わないけれど少なくとも善人ではない。こんなところですね。 モテそうな性格をしているようにはとても思えませんね。この『卑屈』を生み出すにあたっての何かしらの土壌があるのだろうと何となく推測ができますね。 
もしどこかの街で、雨の日の捨て犬みたいなじっとりじめじめした女が往来を歩いていたらそれはきっと私です。背が高ければ尚更私である可能性は高いかもしれません。

『男の人が嫌いなのか』という風に聞かれることがあります。私は男の人が嫌いなわけではありません。『嫌い』という感情を持てるほど男の人との接点がないからです。
得体が知れない。何を考えているのかわからない。女の人には同胞意識も湧くし何となくわかるように思えるけれども男の人は一生わからない。永遠の未知です。
この日本社会が異性愛と同じぐらい同性愛がポピュラーなものであれば、私は前向きに女性と交際することを検討したのではないか、と思うときがあります。


特に住宅に関してのお役立ち情報を発信するわけでも無いにも関わらず、集合住宅という名の付いたこのブログ。なんだか、枕草子みたいだなあと思うことがあります。藤原道長の隆盛により斜陽化していく定子中宮の、最も美しかった時代を書き残しているのが枕草子です。作中で描かれる色彩溢れる華やかさと実際には没落していく中関白家、という甘苦さを枕草子は孕んでいるように私は思っています。
私の文章も同じです。美しい瞬間を写真で切り取るように保存して、残りは放置。

私は知ってしまっているんですよ。知りたくなかったことを。 私が一次会で帰った中学高校の同窓会の二次会三次会の果てに、元クラスメイトの男Aと女Aがどんな醜態を演じたか。
高校生の時誰もいない放課後の教室で彼女持ちの男Bと浮気相手の女Bが何をしてたか。その男は平然と高校時代の彼女とずっと今でも付き合い続けていることを。 
酒宴の席でたがが外れた彼らはそういう面を、自らの不道徳を赤裸々に白日の元に曝けだしました。でも多分私が知らないだけでこれはあくまで氷山の一角でしょう。
下賤な言い方をしますが、この学校で処女のまま卒業したのは一体何人いたのかと卒業後今更ながら疑問に思いました。
知りたくないことを知っていくことが大人になるということであるなら、理不尽ですね。