集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

さらに前よりもっと生々しい話 2

私は処女です。しかし、特別守ろうという意思があったからと言うよりも、ぼんやりとしていたらいつの間にか今もそうなっているというような、そんな感じです。 

取捨選択の機会が私に一度でも訪れたことはありません。また近い将来それが訪れるようにも思いません。だから今私が書いているこの文章は「もし綾瀬はるかと付き合ったらどのような形で彼女を幸せにするか」を真剣に考えている人ぐらいおめでたく、現実味もなく、不毛なものです。

 

結婚するまで守り続けるぞ、といった頑なさや高潔さが自分にあるのかよくわかりません。そもそもその考え方は明治時代に日本に入ってきたキリスト教的な感じがします。結婚前の男女の性交渉は姦淫に当たり、禁じられているのでしたっけ。でも私別にクリスチャンじゃないしーって、ちょっと思ってしまうのですよね。 
 
 
御子柴清麿氏のブログ、クラブについてのブログなのですがとても面白いです。 以前はナンパもなさっていたようなのですが、最近は思うところあってやっていないようですね。あの方の文章にはどこか知性的な所があり、ナンパに関する文章も純粋に面白く読めます。 

ただ驚いたのが、その日逢ったばかりの男の人とそういう事が出来る女の人が一定数いるということでした。彼女たちは私は違う人種なのでしょうか。それとも、思いわずらっていたものも数年経てば些末なことだと思えるように、失ってしまえばとるに足らないと思うのでしょうか。

 
処女であれば清らかなのか。どうなんでしょうね。私、清らかですか?
私はR-18のエロ漫画を買うしエロゲーも買うしたまにxvideoも観るし。親には言えない不道徳を隠し持ってる。 私は幻想なんじゃないかと思います。
『残り物には福がある』と言いますが、人に関していて言えばそこに福はないと思います。
 
 
 ある時私は思ったことがあります。もし私がその辺の適当なところで処女を捨ててきたとしたら、私は本当に何を失い、また誰を裏切ることになるのだろうかと。
(でも実際、そんなことをしたらものすごく現実的なリスクを背負うだけに思う。)
 
輪郭のはっきりしない「処女性」とやらを私は失うことになるのでしょうか。そういえば処女ではない人のことをネットではよく「中古」という表現をされますよね。私はあれに嫌悪と恐怖を覚えます。よくネットで『新品の車と中古の車だったらどっちがいいか、それなら新品に決まっているだろう』という風な事を言っている人を目にします。蔓延しているネットの情報をそのまま真に受けているところがあるのですが、それでもネットという場所は自分の本音に対して少しオープンな場所です。
「新品」でなくなった瞬間に価値は下がる。なるほど、君たちは『消費者』なんだね。でも気持ちも分からなくはない。
 
私の価値ってなんだろう。今私に価値があるとすればそれは若いということ。ブスではないということ。他の人が失ってしまっているもの、あるいは失いつつあるものを私はまだ持っているというそれだけです。どれも日々消費されていき、いつかは影も形もなくなるものだけが私の拠り所です。それ以外のものには、自信がない。
私は歳を取ります。5年後にはおばさんと呼ばれ始めます。10年後には醜くなります。20年後には・・・・。
でも決して取り戻せないものだから、今持っていることに価値がある。大事なことです。もし15歳の少女が私を見て「オバサン」だと思うなら、彼女にはそれを言う資格があります。私よりも若いからです。若さというものはそういった理不尽を許されるのです。
 
なんだか私自身が処女にこだわりがあるのか、それとも「処女」というものにこだわっているのは男の人の方なのか、よくわからなくなります。
 
話を戻しますね。
私に交際している相手がいるのであればその相手に対して不貞を働くことになりますが、私にはそんな相手はいません。だから私がもし適当にそんなことをしても、目に見える誰かを裏切ることにはならないように思います。
私が裏切るのは、今はまだ存在しない未来の恋人です。私は未来の恋人に、一生言えない不道徳を構築してしまうのでしょう。
(私は生きていれば二・三人ぐらい誰か私のことを選ぶ人間もいるだろう、という想定で生きています。)
 
 
私は『特別』を愛しています。『特別』の効力を信じています。私は特別扱いをされたいし、また私を特別扱いしてくれる誰かに自らの特別を注ぎ込みたいのです。
特別というのは、限られた状況でしか発生しません。極わずかな対象にのみ行うからそれは特別として成り立つのです。誰にでも与える特別は、『特別』として成立しない。

太宰治の斜陽でかず子が言ってましたね。「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と。
私は思います。「人は誰かの『特別』として承認されるために生まれてきたのではないのか」と。そしてまた誰かとの相互的な『特別』という関係性を構築することで満たされるのだと。
私の与えたい『特別』が特別なものでなくなってしまったら、私は本当の『特別』をもらえなくなってしまうかもしれない。それは嫌です。だから私の『特別』の純度を濁らせることが怖い。なんの役にも立たず、誰の特別にもなれないまま死んでいくなんてそんなのは酔生夢死というものです。
私が本当にその人の特別が欲しいと思い、さらにその人もまた私の特別になりたいと思ってくれるなら、私は私の『特別』を全部あげる。ただ女の子の甘い蜜の部分だけをつまみ食いしたい人たちには何もあげないし、何も許さない。私は特別に執着する。本当の特別になるために、特別を守る。
(途中から自分で何が言いたいのかよくわからなくなりました。読んでいる人はもっとよくわからないですよね。もっと文章を書くのがうまくなろうと思います。)