集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

バレンタインとグミックス

年々バレンタインが自分にとって遠いイベントになっていく。今年ほどバレンタインの存在感が空気だったことあったかしら。

数日のあいだ、Sという友人がこっちに遊びに来ていて、映画館で映画を観たり(ベイマックス!)家でも映画を観たり、グミを作ったりしていた。

友人と一緒に作って楽しもうと思い、グミックスという、グミをカブトムシやクワガタ、アメリカザリガニ型に作れる子供用のキットを購入した。高校生の時、グミックスが欲しくてたまらなかったのだが、金銭的な事情によって入手することはできなかった。
今はあの頃よりもずっと自由にお金が遣えるし、簡単に購入できた。憧れたものをちっとも高いと思わずに軽い気持ちで買えてしまうことが少し寂しい。発売されてから日が経っていることも関係しているのか定価よりも安く新品を購入することが出来た。Amazonで1900円ぐらいだったかな。

友達と一緒に作業をしたかったのに、一人でやる作業ばかりで、少し場がしらけてしまった。型から足を切り離すのがとても難しい。千切れてしまったりしてとても面倒くさい。ダンゴムシは別だかカブトムシもクワガタもアメリカザリガニも、一回の作業につき一匹しか作れない。作業効率が著しく悪い。
まず最初にコーラを用いてカブトムシを作ったのだが、ツノがもげてしまったし足の接着も面倒臭がったため、どちらかというとGOKIになってしまった。上手くできたら友人にあげるつもりだったのだけれど、自分の想定以上にダメダメだったので、あげないことにする。ごめんね。
グミックスのレシピ通りにはグミは作っていない。そのまま作るとまずいとネットで見たので、30ccのジュースに対して6グラムの砂糖、2.5グラムのゼラチンで作った。あまり市販のグミっぽい食感にはならず、どちらかと言えばゼリーに近かった。
(レシピ通りだとゼラチンが多すぎてゼラチン臭いものになる‥らしい)


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大事なところがもげたカブトムシ。アイデンティティの欠落とはなんぞ。




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アメリカザリガニ製作過程。こいつはザクロジュースで作った。片腕と足二本しかつけてない。もう片腕はうっかりミスで溶かしちゃった。


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(私と同時期にブログを始めた人は多くいたけど、ぼちぼちと書いているのは私ぐらいなんですね。11月に始めたので、3ヵ月くらいになるのかしら。思ったより続いている。もっと早く飽きているつもりだったので、意外である。もしかして私ってまめだったのかしら。

リアルタイムの話は世俗的で、思い出話の方がポエミーなのが何だか空しいですね。現実は醜く、思い出ばかりが美しいっていう真理をついているのかも。)

雪の降る日に

某月某日
この街に雪が降った。積もるほどではない、短期的な粉雪である。口を開けたり目を開けたりしていると雪が入ってくるので、口を固く閉じ、薄目を開けて自転車を漕いでいるとたまらない窒息感に襲われる。バイト先のスーパーに近づけば近づくほどより雪の量が増えるので、このスーパーがこの街の雪の発生源なのではないかとすら思われた。

雪の降る日はある日のことを思い出す。高校の修学旅行で、Zと二人でログハウス調のカフェに居たときのこと。
自由時間に、寒いからここで一緒に寛ごうとどちらからともなく提案して、そこに入った。外は雪が積もっていて寒い夜だった。
店内は木目の穏やかな雰囲気を持っており、オレンジの光が目にも心にも暖かだった。

具体的に何を話したかはあまり覚えていない。私はあのときハーブティーを頼んでいて、(けして美味しくもないし独特の酸味のあるあれを、当時の私は格好つけて頼みたがっていたのだ) 彼女はこの店お薦めのホットミルクを頼んでいた。そのホットミルクは不思議なホットミルクのようで、表面は冷たく中の方は温かくて甘い。二人とも飲み慣れない飲み物を背伸びして頼んで、首を捻りながら飲む。
室内は暖かだが、窓に触れるとツン、と外の冷えた温度が電流のように指先に伝わる。窓の外を見る。『夜の底が白く冷えた』というのはこういう情景なのだろうかと夢想する。暗闇の中に白い斑点がちらちらと明滅するかのように落ちていく。雪の降る日というのはどうしてこんなにも静謐なのだろう。周りの音を吸着しながら、ゆっくりと落ちていくように思われる。その落ちていく雪を眺めていると、時間がまるでストップモーション・アニメみたいに細切れになって、ゆっくりになったみたいに思えてしまう。
何を話したかは覚えていない。窓の外を眺めたり、口に合わないハーブティーで体を温めたことしか覚えていない。それでも私は彼女と何かを共有していて、このゆっくりとした時間の中に安らぎを感じた。どうかこれが永遠に続けばいい、それが無理ならどうか彼女もこの時間のことを覚えていてくれたらいい。そんな風に思ったのだ。

ちーちゃんはちょっと足りない 感想文

阿部共実さんの『ちーちゃんはちょっと足りない』という漫画を読んだのだが、鮮烈な印象が残ったため、感想を書こうと思う。



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この漫画はちーちゃんを主人公にしている…‥と見せかけて、その友人のナツが主人公の漫画であると思う。
一話から四話まではほのぼのとした日常を描き、五話からある事件が起きる。


ちーちゃんはいつも自分と仲良くしてくれるナツに恩返しをしたいと思う。そこでちーちゃんはナツがお金が欲しいと思っているのだと知る。ちーちゃんは女子バスケ部のお金を盗み、そのお金をナツにあげる。ナツはそのお金が悪いお金だと分かっていながらも『二人だけの秘密』と言ってそれを受けとる。



ちーちゃんは色々なものが『足りない』。頭がよくないし、蜂に対しての警戒心も足りない。家は団地で母子家庭で貧乏。倫理観も足りない。中学二年生なら人のものを盗ってはいけないということが分かるはずなのに、彼女にはそれが欠落していた。
この漫画の感想文を書いているブログをいくつか読んだが、作中ではそうと言われていないがちーちゃんは知的障害者であるという解釈をしている人が多いようだ。


ナツもまた、『足りない』という欠落を抱える少女である。勉強は出来ないし、家も裕福ではなく欲しいものは手に入らない。彼氏もいない。満たされずに、『何か』が欲しいと渇望している。
友人の旭ちゃんや奥島くんや如月さんに劣等感を抱き、自己に対しての評価も低い。思春期特有の閉塞的な自分の中の世界を構築しているように思う。

作中で描かれているナツの持つクズさや卑屈さはありし日の私、いや今も私が持ち合わせているものと同じだと思った。一つ一つのエピソードにどこか『ああでもわかるなあ』というような、暗い沼のようなズブズブとした共感があった。
よくナツの思考の中に『私たち』という言葉が出てくる。この『私たち』とはナツとちーちゃんのことを指すと思う。この二人の関係性は二人だけで完結されたもののように思う。この『私たち』の中には、旭ちゃんは絶対に入らない。
ナツがちーちゃんに感じる同族意識は、『ちーちゃんは自分のことを傷つけない存在であり、自分のことを脅かさない存在であり、そして自分と同じく何かが足りない人間だ』と思っているからではないかと思う。だからナツは精神的な深いところでちーちゃんに執着しているし、彼女しかいないのである。ナツがそう思うのには、ナツ自身の自己評価の低さも関係していると考えている。



ちーちゃんは最終的に、自分がやったことが悪いことであることを藤岡さんに教えられ、謝罪し、許される。その藤岡さんのやり方も鮮やかだった。『髪飾りを貰う』と言って盗ろうとすることで、人のものを盗ってはいけないということをちーちゃんに分からせた。このシーンによって読者の藤岡さんの見え方は変わる。

『本当は盗んだのは千恵だった』と言って女子バスケ部に謝ることができた旭。自分が間違っていたと知ってちゃんと藤岡さんに謝ることができたちーちゃん。

それに対してナツはちーちゃんの盗んだ3000円のうちの1000円を自分が貰ったと告白もできず、謝ることもしなかった。藤岡さんにも、旭にも、一生許されることがない。ナツはちーちゃんとは違い、人のお金を盗むことは悪いことだとちゃんと分かっていて、その上で貰ってしまっている。直接的に盗んだのはちーちゃんなのに彼女は許され、間接的にお金を貰ったナツは一生許されることがないのだ。だからナツはずっと自らの行いに罪悪感を持ち続けるだろうと思う。
ナツはけして悪人ではない。恐らくちーちゃんがお金を盗んでこなければ、一生人のお金に手をつけたりなんてしなかっただろうと思う。『ちょっとくらい ちょっとくらい 恵まれたって いいでしょ私たち』って思ったというそれだけのことだ。


せめて自分の過ちを懺悔し、謝罪できれば関係性も変わっていたかもしれないが、それをせず、旭ちゃんの中の藤岡さんの印象が変わったその後で藤岡さんのことを悪く言ってしまった。正直間が悪かったのだと思う。
見た目がギャルめいている藤岡のことは不誠実で不真面目で怖い人だと認識し、優等生の奥島や如月を高く評価するナツの表面的な見方を責めることなんてできない。私だって同じだからだ。
ナツは藤岡さんのいいところを知ることなく中学生活を終えるのだろうと思う。

旭は、ちーちゃんが1000円をあげた相手がナツであることはすぐにわかっただろうと思う。ちーちゃんの交遊関係の中で、お金をあげるような人なんて限られているだろうから。犯人がわかっている上で耳にするナツの発言に失望を覚えたのだろう。
この漫画には旭ちゃんからの視点はない。だから旭ちゃんの考えていることが正確に読めないかもしれない。ナツが旭に思う感情が自意識過剰なものなのか、実際に格下だとみなしていたのかはわからない。

旭の立場からみれば完結された二人の関係に足された一人、というような三人の中においての疎外感はあったのではないかと思う。
旭は付き合いにくいタイプのように見える。独特な口調でものを言うし、思い込みが激しく、女子バスケ部員に対し、ちーちゃんはそんなことはしないと言って激昂する。彼女の美点はちゃんと謝れることだろうか。




あの描写は本当に凄いと思った。欲しかったリボンを手にいれて、このリボンがあれば自分の生活に何か劇的な変化を与えるのだと信じていたが、実際に教室に入り誰からも何も言われず、そのリボンがどれだけ無力であるかを悟るシーンだ。よくあることだ。自分で思っているほど周りは自分に興味も関心もない。
自己嫌悪と虚しさが襲い、景色が歪む。欲しかったリボンを手にいれたのに、ゴミ箱に捨てるナツの気持ちがよくわかった。


ちーちゃんは学び、きっとこれからも成長して前に進んでいくだろう。しかし、ナツは進まずにずっと立ち止まったままだ。いつかきっと前へいくちーちゃんに追い越され、置き去りにされるだろう。ナツだけが不変のまま塩の柱のようにその場に佇み続けるだろう。
その悲しい予感を抱きながらもナツは『私たちずっと友達だよね?』と言っているように私は解釈した。

(ナツにとってはあくまでちーちゃんは足りないなにかを埋めるための一つで、そのちーちゃんすらもいなくなったらもっと足りなくなってしまう。もし高校に入学して、ナツに新たな友人ができたり、もし彼氏ができたとしたら、きっとナツはちーちゃんのことを切り捨てるだろうな、と思う。)


面白い面白くないでは単純に言い表せないような、何とも言えない不快さとダークさがある、凄い漫画だった。
(初めてはてなブログっぽい文章を書いた気がする!)

雨の花

雨の日は頭上に花が咲く。
24本の骨を持つ私の傘を開いた時、頭上にまるで乱菊の花が咲いているように感じる。緋色の傘から透過するわずかばかりの光は、まるで絹ごしされたかのように柔らかい。
私は頭上を眺めながら歩く。そうしていると、緋色に包まれているかのような錯覚に陥り、私の心に朗らかさを与える。






雨の日は空も曇り、見えるもの全てが暗くくすんでいるかのように思われる。アスファルトも、建物も、皆どこか雨の日の鬱屈とした気持ちを隠しきれずに顔に出してしまっているかのような、そんな薄暗さを感じさせる。

そんな世界の中で私が緋色の花を開かせたら、一つ、鮮やかな色が足されるように思う。これは嗜好の問題であるが、傘は鮮やかな色の方が美しい。雨の日の色調の中で、私の傘の色だけが映える。色が映えるという感覚には心躍るものがあり、えもいわれぬ興奮を私にもたらす。
しっとりと雨に濡れた緋色の傘はより深い赤色になり、それら風景のどんな色よりも鮮やかに、雨の世界を彩る。
雨の日はそのような嫌になるくらいポエミーな事を考えても、多少は許されるように思うのだ。

退廃未遂

いつからか自分にはある恐怖が付きまとっていた。
『私が演じている私の皮を剥いだその奥には、つまらない私しかいない。』と。

私は人と話していて時折ひやりとする。私が本当はつまらない人間であることがバレてしまったのではないかと。私は自分の底を知られることが怖い。真実が白日の元に晒されたとき、人々からは心底見放されるだろう。今まで対等だとして扱ってきた私のことを、「学ぶことを捨てた下衆」だと気づき、軽蔑するでしょう。

『精神的向上心のない者は莫迦だ』と云う有名な言葉がありますね。そうです。私は莫迦なんです。私には意欲がない。意識もない。出来れば何も学ばずに、何もせずに生きていけるならそうしたい。思い返せば私は学業に、いいえ学ぶことに熱心だったことはありませんでした。私はいつも怠惰で、腐っているのです。努力をした覚えなんて一度もありません。いつだって自分が楽な方に身を任せ、行き着いた先もまた自分が楽をした結果なのだと思うと妙に腑に落ちるのでした。
ある時私の脳裏に「頑張らない人間に最終的に訪れるのは死だ」という言葉が過ったことがあります。このまま何かに頑張ることもなく生きていたら、選択肢は先細るのだろうなと。
学ぶことは楽しいことなのでしょうか。今の私にとっては「しなければならないこと」であり「強迫観念」です。私は学ぶことを楽しいと思ったことがあったのでしょうか。

私はもしお家が大金持ちだったらきっと働かないでしょう。しかし残念ながらうちの家は一般家庭です。働きたいというよりも、働かなければなりません。しかし働くためには、雇ってもらうためには勉強しなくてはいけないし、また雇ってもらったあともずっとずっと学ぶことは続くのだと言います。学ぶことからは逃れられないのでしょう。生涯学習です。

中学高校もあまりまともに勉強をしませんでしたし、私の知識は恐らく現役中学生に劣るのではないでしょうか。それを恥と思うことも忘れて体裁だけを取り繕い、それでいて新たに学ぶことをしようとしない。


高校生の頃は小説を読むのが好きでした。本を読むとなんとなく利口になれた気がしましたし、自分の意見がなくても、虎の威を借る狐のように、自分よりも賢い人の意見をさもや自分の考えであるかのように振る舞ってみたりも出来るからです。でもそれは張りぼてです。
数年前に図書館で借りて読んだほとんどの本の中身は、断片的にしか覚えていないものが大半です。私は沢山本を読みました。一年で300冊ぐらい読んでいたように思います。しかし私は本を『数』で言うなら沢山読んだかもしれませんが、本当の意味でちゃんと、一字一句をかみ砕き咀嚼し自分のものにした本は一体何冊あったのかと思うと疑問です。

元々日本文学に興味を持って大学に入ったはずなのに、皮肉にも大学に入ってからの私はそれに興味を失っていました。そうやって俗っぽくなっていく自分をぼんやりと見つめて、デカダンな日々に浸っていました。ある種それは、人によっては笑い飛ばしたくなるようなナルシシズムです。


変わりたいと思うのです。本当に。何度も決意をするのですよ。でもその度に私の決意は何倍もの体積を誇る怠惰の渦に呑まれてしまうのです。


(最近、本を読むのが少し楽しくなって、好きな作家に影響された文章が書いてみたくなりました。如実ですね。)

ディスカス1月号

1月1日
愛を読むひと
前半のラブシーンの生々しさに、ああこれ一人で見てよかったと思った。後半のシリアスな展開はよかったと思う。前半は魅力的なお姉さんを、後半では老婆の役を同じ女優さんが演じているのに凄いなって思った。

1月5日
レゴムービー
もう一度見た 面白かった

1月14日
バック・トゥ・ザ・フューチャー
鑑賞会で同時に見ることは叶わなかったが、後日観た。いいものは何回観ても面白いな。2で描かれている未来は2015年の話なんだっけ。今年中に2を観たいね。

1月15日
ジュマンジ
脇役の黒人警官が好き。サイコロを振るたび奇想天外なことが起こるので、ハラハラして疲れる。ゲームが終わったらちゃんと1969年に戻れるところがいいよね。そうじゃないと主人公が可哀想過ぎる。

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲
音楽がとってもかっこいい。ミュウの屈託のない無邪気な動きが可愛かった。テーマも重くて、挑戦的な内容だと思った。オリジナルとコピーが戦ってぼろぼろになるシーンには胸がつまる。

1月18日
スコア
前半はあまり動きがないけど後半から面白かった。でも派手な動きはあまりなかった。味方からの裏切りをさらに出し抜く主人公がかっこよかった。

1月20日
スナッチ
F氏か面白いと言っていた映画。牛乳投げたら事故るとことロシア人車で轢くとこが面白かった。人数が多いけど何とかキャラの区別がついた。ダイヤのカラットが減ってるんだけど犬が2カラット消費したんですか。

1月24日
蛍火の杜へ
サクサク終わって、特に心に残らないストーリーだった。でも台詞と雰囲気はよかったと思う。

1月26日
ジュラシックパーク
私の友人のS氏が最も好きな映画の一つだと言っていたので、興味を持って観た。
本当に恐竜がいるみたいだった。今ある技術を全て使っていると感じ心から凄いと思った。二時間の映画のなかでCGは合計で七分しか使われていないというのにも驚いた。恐竜の血を吸った蚊から血を採取しDNAを作るところなどに、SFの要素があるなと思った。とても面白かった。

ヒトリスト断念

少女の頃は太宰治の女生徒を読んでああこれは私だ、と思った。自分に自信がなく、それでいてこっそりと薔薇の刺繍を隠し持っている彼女の姿が私と同じだと思った。あの文章はまるで頭の中の考えてることがとけでたみたいに雑多で、少女らしくて素敵だった。
今読んだらあの頃のような感動はなくて、そんなにピンと来なくなってしまった。いっそ少女のままで死にたかったあの頃を通りすぎた私は、大人になった。
先日バイト先の人に聞いた。いつからおばさんと呼ばれるようになるのでしょうと。バイト先の人は言った。25歳を過ぎたら言われるようになるよと。ああそうか、私のリミットは5年なのだな。短いね。きっと春休みのように有効活用できずに矢のように過ぎていくのだろう。
ずっと少女でいたかったけど、私はもう少女ではないし、同じようにきっと5年経ったら精神までもおばさんになって、おばさんである自分を受け入れるのだろうよ。そう思うと恐ろしいね。

今しかできないことってきっといっぱいあるんだろう。後で若気の至りだと笑って許してもらえるようなことだとか、失敗。私には成功体験も少ないが失敗した体験も少ないように思う。


高校生の頃、ヒトリストになりたかった。
ある日吉野家に一人で颯爽と入っていく女の人を見て、惚れた。あああんな風に一人で吉野家に入っていくのね。なんて自信に満ちていて、優雅で、一人であることに何の後ろめたさもなく清々しいのかしらって。

彼女のように一人を美しく着こなせる、一人を楽しく過ごせる、ヒトリストになろうと考える。
一人で行ったことのない店へ行く。敷居の高いお洒落な所とか、男性客ばかりのラーメン屋とか。一人でカラオケをする。みっちり三時間。一人でしりとりをする。みっちり六時間。二時間を過ぎた頃から言葉が続かなくて苦しくなった。一人でプリクラ。自分の横の空白によしこという架空の友達の絵を描く。
一人でやることに難易度が高いものを次々とクリアし、自分のヒトリストレベルを上げていった。

大学生になって一人暮らしをしてしばらく経つと、一人というものに対しての考え方や立ち位置が変わった。
今私にとって一人とは日常で、普通で、当たり前で、まるで皮膚のように自らに張り付いているものだ。
一人を楽しめたあの頃は一人が非日常で、当たり前の事じゃなかった。学校にいけば、カーストは低いものの自分が集めて作った世界があって、特別な女の子がいて友達がいて、家に帰れば父と母がいた。一人でいることを楽しめていたのは本当に私が一人ではなかったからだ。

一人は何の面白味も魅力もない、ふつーのことだ。むしろ一人が嫌になってる。
当然一人を楽しもうという気持ちがなくなる。一人でいるのにお金を遣うのが勿体ないように思うし、一人で高いものを食べてもそんなに美味しいように思わないし、誰かと過ごす時間にお金を遣いたいと思うようになった。

一人で旅行に行っても全然不安な気持ちにならない。日常の延長のように感じる。もう私は遠いところに住んでいるのだ。だからそこから遠いところにいたってそれは大したことではないのだと。


群れなければ生きていけないなんてと思うけれども、ずっと私はそのままなのだ。学校では寄り添える誰かがいなければ、所属しているところがなければ寒さに凍えて死んでしまうだろう。何かに属しているという安心感はとても強い。
今は何にも私は属していないで、宙ぶらりんだ。そして、一人が嫌になっている。見苦しいだろう。