集合住宅

蛇の道はheavyだぜ

淡路島『ナゾのパラダイス』再訪&取材編

数年前に、ナゾのパラダイスを訪れた。

しかし当時の私には内容があまりにも過激だったのと羞恥心を掻き立てられたために、あまりナゾのパラダイス自体のことをよく覚えていないことに思いついた。

ナゾのパラダイスに関する記事が書きたい、しかしあれではただの思い出話に過ぎない。もしナゾのパラダイスに興味を持って検索をかけてあれが出てきたら、本当に知りたい情報が何一つ載っておらずがっかりされてしまうだろう。実際にナゾのパラダイスに行きたい人や、ナゾのパラダイスそのものがどんな場所であるかを知りたい人にとっては何の役にも立たないではないか、と気づき

「ならば私はもう一度あの場所へ行く必要があるな。ちょうど2月25日から淡路に帰っているし、その時にでも行けばいい。」と考えたのである。

 

「ナゾのパラダイス」は洲本市由良に存在する。「由良」は淡路の中でも少し異色の地域であるように思う。淡路島の中には「淡路弁」と「由良弁」の二種類の方言がある。淡路弁は基本的にさほど関西弁と変わらないのだが由良弁は特徴的なので、ネイティブの由良弁を話している人の言葉を聞いても、私は多分得体の知れない外国語みたいに何一つ理解できないと思う。(でもあまり最近は若い人はまともに由良弁を話したりしないし、衰退している。言葉ってこうやって消えていき淘汰されるのかしら。)

 

探偵ナイトスクープ」という関西地方で人気を誇る視聴者参加型のローカル番組がある。関西圏ではとても有名な番組なのだが、関東での知名度はどうなのだろう。ご存知ですか?

その番組において何十年も前にだが、この場所は「淡路のパラダイス」であると取り上げられて話題になった。その後パラダイスシリーズと呼ばれる、秘宝館や零細遊園地など個人で行われている集客の少ない施設を面白おかしく紹介する企画がコーナー化されている。ナゾのパラダイスは番組内の「パラダイスシリーズ」の魁であり、またナイトスクープによって紹介されたことの恩恵を最も受けているパラダイスではないかと思う。


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ナゾのパラダイスは「立川水仙郷」という淡路島にある水仙の名所の中に存在する施設である。1月から2月にかけて幾百万本の清廉な水仙が切り立った斜面を覆う絨毯のように咲いている。美しい場所である。数年ごとに入場ゲートの大きな絵は書き換えられているのか、二年前に来た時と違う絵になっていた。

施設には「淡路島 ナゾのパラダイス おしべと♡♡♡ めしべのことを まなぶところ」と大きく書かれている。おしべとめしべ・・・か。なかなかセンスあるな。

 


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ちょうど今なら見頃の水仙が目の前に広がる。だからパラダイスを目的に来た人と、水仙の写真を撮るために来た人と、健全な目的の人と不健全な目的の人が同じ場所に存在している。

 


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その場所は私営で管理されており、そのナゾのパラダイスの展示品たちもある一人のオーナーの収集品だ。よくあれだけのものをたった一人で集めたと思う。たくさんのお金と時間をかけたのだろう。性に対しての執念と狂気を感じ、から恐ろしくなる。


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人にナゾのパラダイスについて伝えようという目的があるというのと、一人で赴いたこと、さらに私自身が性的なものに対してある程度耐性が出来てしまっているというのもあってか、二年前に来た時よりもちゃんと展示品を見ることができた。

「写真撮影をしてもいいですか」とナゾのパラダイスの管理者に聞くと、「ちょっとならいいよ」と言われた。さらに「ネットに上げることも大丈夫ですか?」と確認を取ると「ああ、みんなやってるしいいよいいよ。むしろ宣伝して頂戴」というぐらいだったので、ありがたく掲載させていただく。なんて寛容なのかと驚いた。

(ただしあまりにも直接的なものを載せるのはちょっと気が引けるので、大丈夫そうなもののみを載せてあます)


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私は秘宝館そのものに関しての知識がないため、他の秘宝館と比較してナゾのパラダイスがどうであるかを説明できるか自信がないのだが、ここにおいて言えるのが

「文字による情報が多い」ことだと思う。オーナーの男や女に関しての自論が紙に手書きで何枚も書かれていて、それがあちこちに貼ってある。その内容の中には純粋に「なるほど」と思えるものもあった。

あと春画であるだとか、木製の男性器のオブジェが何個も置いてあったり、あとエロ雑誌か何かの1ページが展示されていた。時代による風化と劣化が何とも言えない哀愁と懐かしさを生んでいた。

 

管理者と少しお話する。(管理者とオーナーは同一人物ではない)

立川水仙郷のオーナーがたった一人で集めたということや、夏休みのシーズンになると大学生たちがバスを貸し切ってナゾのパラダイスを訪れることを教えてもらった。二回目三回目と何度もここを訪れるリピーターもいるようだ。

「それは・・酔狂ですね」と小声で思わず感想を漏らすと、「えっなんて言った?」と聞き返された。「いえ、なんでもないです。」と濁す。

管理者が男性器のオブジェを指差して、「よければ一緒に写真を撮って差し上げましょうか」と申し出てくれた。二年前はそんなこと、絶対できなかったなあと思いながら、「そうですね、せっかくだから・・」とお受けする。「こんな木なかなか他所であれへんもんな」「そうですね・・・こんな木、今後他所で絶対見ないと思います・・・」

 

以下の二枚が撮ってもらった写真です。なおプライバシー保護のためモザイクをかけております。


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春風や 闘志いだきて 丘に立つ(意味深) 
 

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淡路島に来ることがあれば、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

淡路島『ナゾのパラダイス』に赴いてしまった時の話

ナゾのパラダイスを知ったのは、高校一年生の頃だった。 私が所属していた生物研究部の活動で、立川水仙郷付近のフィールドワークをすることになった。この部活は『外部の友達を連れてきても構わない』ようなとてもゆるい部活だったので、私の友人のZも参加していた。
 
立川水仙郷に行く道中、不思議な看板を目にする。
『立川水仙郷 ナゾのパラダイス』と書かれた看板があった。どうやら立川水仙郷にはナゾのパラダイスという不穏な名の施設があるらしい。『ナゾ』という単語と『パラダイス』という単語が我々の好奇心を駆り立てる。しかもその看板にはとても手作り感があり、それがかえって私たちに好感を持たせた。
 
 
部活動の後、顧問の先生と私とZでナゾのパラダイスを訪れた。
その楽園はどこか寂れた雰囲気と手作り感かあり、時代から取り残された独特の雰囲気を放っていた。その入り口に向かうと、『18歳未満の方はご入場できません』という注意書きがあった。
そして、ここがどういったパラダイスであるかを薄ぼんやりと理解した。それを見て先生は『ごめんなさい、僕は先生としてここに引率することができません』と言った。
そうですね、もしここに引率していたら、『男性顧問、女子生徒二名を秘宝館へ引率』って見出しで朝刊を賑わしてしまっていたかもしれません。部活動で来るにあたって絶対に適切ではないですからね。それにその時私もZも当時はまだ18才未満だったから入る資格もないし、その時は何も見ずに引き返したのだ。 
 
秘宝館、ってご存じですか。そう、ナゾのパラダイスは秘宝館だったのです。
 
 
それから二年後のできごと。高校の卒業式は終わったもののまだ大学生活も始まっていない、高校生でも大学生でもなかった三月のこと。
私はあと数日で淡路の外を出て、そこからはひとり暮らしが始まることが決まっていたし、Zもまた予備校に通うためにあと数日後には淡路の外を出て寮に一人暮らすことが決まっていた。ばらばらになってしまうその前に、最後に私たちはずっと自らの後ろ髪を引き続けていたナゾのパラダイスと決着をつけようと考えた。もう私たちは18歳になったのだから、その楽園を見る権利がある。その楽園を見なければ、真の大人にはなれない。これは私たちの何か一つの区切りであり、あるいは儀式であり、また思い出を作る行為になるのだろうと思っていたのだ。
 
念願のナゾのパラダイスに足を踏み入れたとき、私はいたたまれない気持ちになった。「秘宝館」というものについてあまりよくわかっていなかったし、具体的にどんな展示があるのかもわかっていなかった。ただ漠然と「18歳未満の人が見るには有害なものを展示している」ということをふわっと理解していただけだった。
直接的にアレなものたちが自分の目に嫌でも入ってくる。それに目を背けたら、今度はその目を背けた先にまた不健全な展示がある。視覚から入ってくる情報が当時の私には過激すぎた。それに、友達と一緒に来ているのもあってその展示をまじまじ見るのもなんとなく恥ずかしい。ほかのお客さんや友人からその展示を見ているところを見られることが恥ずかしい。秘宝館にいる私、を俯瞰で見てしまうとその場所にいるのがいたたまれなくて、居心地が悪くて、弾んでいた言葉も何一つでなくなってしまう。
展示を見上げるために半歩後ろに下がった。すると背中に何かが当たる感覚があった。それを咄嗟に「人」だと判断した私は「あっすいません」と言い、振り返った。そこにあるのは人ではなく、自分の身長と同じぐらいの大きさの木製の男性器のオブジェだった。恥ずかしさが胸までこみ上げてきて、頭の中が真っ白になった。友人はそれを見て笑いをこらえていた。しかし私のテンションはどん底にまで下がってしまった。
この場所に対しての羞恥心を覚えたのは友人Zも同様だったようで、彼女のテンションも下がっていた。全部を丹念に見ることもなく、どちらからともなく「もう出ようか」という言葉を口にした。ナゾのパラダイスを出て、自らの心を慰めるかのように、取って付けたかのように「水仙綺麗だね・・・」「うん、水仙綺麗だね・・・」と言い合った。このままの気持ちで車に乗るのも、このままお別れするのも嫌だった。しばらく会えないかもしれないのに、こんなしょっぱい思い出では嫌だ。と思い、「Zちゃん、まだ時間はあるか?」と聞いた。
 
車で海沿いの道をずっと走り続けた。そして、Zが中学までを過ごした街を目指した。ずっと長い一本道で、それに沿うように常に青い海と青い空が目に入った。
音楽はクラシックのピアノ曲を流していた。窓を開けると塩を含んだ海を感じる爽やかな風が入ってきて、それが快かったことを覚えている。私はとってもおしゃべりで、話すことが大好きだけれど、同様に気詰まりではない快い無言の空間を愛している。どこまでもどこまでも彼女と、遠くへ行きたいと思った。
 

コンビニ行脚いたずらの旅 2

四件目、ローソン。華やかな20代の女性が私のレジをしていた。毛先にパーマネントのかかったボブカットで、結構可愛い子。横にいる女性店員ともっと話したそうにしていたので、彼女たちは仲がいいのだろうと推測した。

詰め替え用ではない、ちゃんと容器にはいったアタックネオ(筒に近い形状の容器にはいった洗剤)を買う。
四件目で少し学習した私は、二つのテクニックを使う。
『長い方のストローを、お願いします』
あえて『長い』ストローを指定してつけさせる。長い方のストローの長さは、アタックネオの容器の長さに対してとても丁度いい。きっと店員の想像力を掻き立てる(はずだ)。
さらに、店員が袋を用意しようと屈んでいるのを見計らい、『このままで大丈夫です。』と言う。片手でアタックネオとストローを持って去る。まさに今から飲むような雰囲気が出せていたのではないだろうか。

五件目、セブンイレブン。猫缶の他にお酒やらおかずを買って、さもやつまみに猫缶を食べるかのような演出をする買い物をしようかと考えたが、それでは猫缶ではないものにお箸をつけてもらいたがっているように思われてしまうかもしれない。今回は猫缶と犬用のウェットタイプの餌を買う。
レジに持っていき、『お箸をつけてください』と言う。店員は、いくつだろう。20代と言われても40代と言われてもしっくりくるような男性だ。愚鈍な印象を受ける。ポケモンでたとえるなら、カビゴンに似ている。
猫缶とドックフードに箸をつけることに何の疑問も持たないようだった。
私は少し、自分のやっている行動にやけを起こしていた。今こんなに面白い試みをしているのに、どうして誰もこの面白さに気づかないのか。どうして今、あなたの退屈な日常に隠れているささやかな非日常に気づかない。疑わないのだ。
去り際に私が店員に対して言う『ありがとうございました』が萎れていた。


ストローを全然関係ないものにつけろというお客さんはたまにいる。だからその類いだと認識されてしまうのだろうか。それともこの人たちは自分たちの生きる日々に何の疑問も持たず、ただとろんと子豚ちゃんみたいな目をして、自分の決まっている時間が終わるのを待っているだけなのか。きっと私が店員たちに対してそう思ってしまうのは、他でもないこの私がそうだからだろう。ただいたずらにその時間が行き過ぎるのを心を無にして待っている。本当は私こそが愚鈍な店員なのだ。

もしもの話だけど、もし私のレジに洗剤にストローつけてくださいと言ってくる客がいても「お飲みになるんですか?」なんて絶対に心のなかで思っていても聞けない。失礼だし、飲むはずがないから。だからきっと店員さんも、想像力を掻き立てられたとしてもそれを表に出したりはしないだろう。その上で私が満足のいく答えを出すとしたら、結果的に自己満足以外何もないのである。

この旅には終わりがないかもしれない。私が望む結末はどこにもないかもしれない。それでも私は次のコンビニを目指すのだ。



六件目、駅の近くのファミリーマート。一見客が多く見えるが特にレジ周辺は混雑しているわけではなく、立ち読みをしているお客さんが多い印象を受けた。レジが混んでいたり忙しいと気づいてもらえない可能性が高いため、安堵する。
店内を物色する。まず猫缶を一つ手にとった後、「何にストローをつけてもらおうか・・・」と考える。ちゃんと長い方のストローで飲むのに丁度いい形状の容器にはいっているものを探す。もう洗剤はさっき買ったからいらない。違うものがいい。もうすぐサラダ油が切れそうだし、サラダ油にストローを付けてもらおう。
レジへ1リットルのサラダ油と猫缶を持っていく。店員さんは30代後半の女性。ファミリーマートの場合、名札に星がついていて1つ星から5つ星まである。星が多ければ多いほどスキルが高い、ということになっているらしい。彼女の名札の星は2つ星だった。
「おはしとストロー、あっ長い方のストローをつけてください」と言う。そしてさらに店員が屈んで袋を出そうとするときを見計らって「あっ、すぐ使うんでこのままで大丈夫です」と言った。四件目のローソンでのテクニックを使ったのだが、ただそこに「すぐ使う」というワードを入れた。えっこの人サラダ油をすぐ使うの?袋いらないの?それに長い方のストローってもしかして・・・と思わせるためだ。けして「すぐ食べるので」とか「すぐ飲むので」という単語を使ってはいけない。あくまで私の目的は店員の想像力を掻き立てさせることなので、そんな直接的な言葉を使ってしまうのは美学に反してしまうのだ。
店員は面食らったようで「えっ、このままでよろしいんですか・・・」と言っていた。その声には困惑の色があった。
私はその店員の反応を見て、勝利を確信した。にやけてしまいそうになる顔を抑えて「はい、大丈夫です」と答える。
pontaカードを提示した後お会計をする。猫缶とサラダ油を持って店の外にでるのだが、そしてここでも私は小細工をした。
猫缶と割り箸は持ってきていた手提げかばんの中に入れ、サラダ油は両手に抱えて持つ。ストローを一緒にかばんに入れてしまわずに、そのストローとサラダ油には関係性があるのだと主張するために、サラダ油の容器の側面に沿わせるかのようにストローを持った。「ありがとうございました」と明るい声を作って微笑む。
出来た。私はきっとこの店員さんに「サラダ油を飲む女」だと思わせられた。そんなのどこでわかるのって話だし、ただ自分のそのとっさの演技力に酔っているだけなのかもしれない。でも、私はひとつ、達成したのだ。






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サラダ油とストロー。ちゃんと長い方のストローに対して絶妙な大きさである。



自転車のかごには猫缶と生活用品でいっぱいになっている。ここまでで買ったもの、サラダ油1リットルとアタックNEOの洗剤、詰め替えパックの柔軟剤、猫缶が5個とドックフードが一つ。





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私、ノリで買っちゃったけど猫も犬も飼ってないんだよね。どうしようか。

コンビニ行脚いたずらの旅 1

なにか面白いことがしたい。この何も起こらない退屈な日々に何か変革を起こさなくてはならない。
リメンバー。思い起こせ。高校生のあの頃は、自分で面白いことを探していたではないか。隕石は燃え散る瞬間が最も美しいように、『衝動』している瞬間が最も私らしく美しい瞬間ではなかったか。
そういうわけでプロジェクトC(コンビニエンス)、開始。


スーパーのアルバイトの後、私は自転車を漕いでバイト先の近くのコンビニエンスストアに赴いた。
私はこつり、こつりと静かな靴音を立てながら店内を物色する。一回、二回と店内をぐるぐる回ったあと詰め替え用の柔軟剤を手にとり、レジへ赴く。
Pontaカードの有無を聞かれたあと、平静とさりげなさを装って言う。
『あっ、ストローつけてください』と。


私は以前から思っていた。
『コンビニで洗剤を買ったときに、ストローをつけろと言ったら、店員は「この人もしかして飲むんじゃないか」と期待するんじゃないか。そうすることで店員の想像力を掻き立てることが出来るんじゃないか。』と
これは私の6つのコンビニを巡る、行脚の旅である。


一件目、ローソン。接客してくれたのは私と同年代の20代の女性。化粧っ気が薄く、素朴な印象を受ける。彼女は普通にストローをつけてくれた。でも柔軟剤を見つめていたので、もしかしたら少し疑問に思ったかもしれない。

二件目、100円ローソン。猫用の缶詰めのキャットフードを一個レジに持っていき、『お箸をつけてください』と言った。店員は40代ぐらいの男性。髪質にくせがあるのかふわふわとしていて、前髪も長く、どこか清潔感に欠ける印象があった。
缶詰めを手に取ると特にその缶詰めを一瞥することもなくすみやかに袋に積めていた。あの缶詰めを猫用のものか人間のものかなど疑うこともない様子だった。レジが混雑しているのも関係していたと思う。

三件目、セブンイレブン。人はあまりいなかったし、バイトもその子しかいなかった。20代ぐらいの女の子で、とても眠そうにしている。アイプチのテープが見えていることもあって、彼女が疲労しているように見えた。
先ほど二件目ではあまり缶詰めを見ずに袋詰めされてしまっていたから学習して、缶詰めを一個ではなく二個買うことにした。同じ缶詰めだとリピート機能で、バーコードを読み込まなくてもレジの入力が出来てしまうので、あえて違う種類の猫缶を買う。
『お箸をつけてください』と言うと、バイトの女の子は
『何膳ご用意いたしましょうか』と聞いてくる。不意を突かれた。そんな質問をされるのは予想していなかった。彼女はあくまで接客の定型文を口に出しているのに過ぎないのだろうけど私は、
『この子は一体この猫缶を何人で食べることを想定して聞いているんだ?』と思うとおかしくなってしまった。笑いだしそうになるのを堪えて変な顔を しながら『い、一膳で…‥‥』と言う。次のコンビニへ。

続く

さらに前よりもっと生々しい話 2

私は処女です。しかし、特別守ろうという意思があったからと言うよりも、ぼんやりとしていたらいつの間にか今もそうなっているというような、そんな感じです。 

取捨選択の機会が私に一度でも訪れたことはありません。また近い将来それが訪れるようにも思いません。だから今私が書いているこの文章は「もし綾瀬はるかと付き合ったらどのような形で彼女を幸せにするか」を真剣に考えている人ぐらいおめでたく、現実味もなく、不毛なものです。

 

結婚するまで守り続けるぞ、といった頑なさや高潔さが自分にあるのかよくわかりません。そもそもその考え方は明治時代に日本に入ってきたキリスト教的な感じがします。結婚前の男女の性交渉は姦淫に当たり、禁じられているのでしたっけ。でも私別にクリスチャンじゃないしーって、ちょっと思ってしまうのですよね。 
 
 
御子柴清麿氏のブログ、クラブについてのブログなのですがとても面白いです。 以前はナンパもなさっていたようなのですが、最近は思うところあってやっていないようですね。あの方の文章にはどこか知性的な所があり、ナンパに関する文章も純粋に面白く読めます。 

ただ驚いたのが、その日逢ったばかりの男の人とそういう事が出来る女の人が一定数いるということでした。彼女たちは私は違う人種なのでしょうか。それとも、思いわずらっていたものも数年経てば些末なことだと思えるように、失ってしまえばとるに足らないと思うのでしょうか。

 
処女であれば清らかなのか。どうなんでしょうね。私、清らかですか?
私はR-18のエロ漫画を買うしエロゲーも買うしたまにxvideoも観るし。親には言えない不道徳を隠し持ってる。 私は幻想なんじゃないかと思います。
『残り物には福がある』と言いますが、人に関していて言えばそこに福はないと思います。
 
 
 ある時私は思ったことがあります。もし私がその辺の適当なところで処女を捨ててきたとしたら、私は本当に何を失い、また誰を裏切ることになるのだろうかと。
(でも実際、そんなことをしたらものすごく現実的なリスクを背負うだけに思う。)
 
輪郭のはっきりしない「処女性」とやらを私は失うことになるのでしょうか。そういえば処女ではない人のことをネットではよく「中古」という表現をされますよね。私はあれに嫌悪と恐怖を覚えます。よくネットで『新品の車と中古の車だったらどっちがいいか、それなら新品に決まっているだろう』という風な事を言っている人を目にします。蔓延しているネットの情報をそのまま真に受けているところがあるのですが、それでもネットという場所は自分の本音に対して少しオープンな場所です。
「新品」でなくなった瞬間に価値は下がる。なるほど、君たちは『消費者』なんだね。でも気持ちも分からなくはない。
 
私の価値ってなんだろう。今私に価値があるとすればそれは若いということ。ブスではないということ。他の人が失ってしまっているもの、あるいは失いつつあるものを私はまだ持っているというそれだけです。どれも日々消費されていき、いつかは影も形もなくなるものだけが私の拠り所です。それ以外のものには、自信がない。
私は歳を取ります。5年後にはおばさんと呼ばれ始めます。10年後には醜くなります。20年後には・・・・。
でも決して取り戻せないものだから、今持っていることに価値がある。大事なことです。もし15歳の少女が私を見て「オバサン」だと思うなら、彼女にはそれを言う資格があります。私よりも若いからです。若さというものはそういった理不尽を許されるのです。
 
なんだか私自身が処女にこだわりがあるのか、それとも「処女」というものにこだわっているのは男の人の方なのか、よくわからなくなります。
 
話を戻しますね。
私に交際している相手がいるのであればその相手に対して不貞を働くことになりますが、私にはそんな相手はいません。だから私がもし適当にそんなことをしても、目に見える誰かを裏切ることにはならないように思います。
私が裏切るのは、今はまだ存在しない未来の恋人です。私は未来の恋人に、一生言えない不道徳を構築してしまうのでしょう。
(私は生きていれば二・三人ぐらい誰か私のことを選ぶ人間もいるだろう、という想定で生きています。)
 
 
私は『特別』を愛しています。『特別』の効力を信じています。私は特別扱いをされたいし、また私を特別扱いしてくれる誰かに自らの特別を注ぎ込みたいのです。
特別というのは、限られた状況でしか発生しません。極わずかな対象にのみ行うからそれは特別として成り立つのです。誰にでも与える特別は、『特別』として成立しない。

太宰治の斜陽でかず子が言ってましたね。「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と。
私は思います。「人は誰かの『特別』として承認されるために生まれてきたのではないのか」と。そしてまた誰かとの相互的な『特別』という関係性を構築することで満たされるのだと。
私の与えたい『特別』が特別なものでなくなってしまったら、私は本当の『特別』をもらえなくなってしまうかもしれない。それは嫌です。だから私の『特別』の純度を濁らせることが怖い。なんの役にも立たず、誰の特別にもなれないまま死んでいくなんてそんなのは酔生夢死というものです。
私が本当にその人の特別が欲しいと思い、さらにその人もまた私の特別になりたいと思ってくれるなら、私は私の『特別』を全部あげる。ただ女の子の甘い蜜の部分だけをつまみ食いしたい人たちには何もあげないし、何も許さない。私は特別に執着する。本当の特別になるために、特別を守る。
(途中から自分で何が言いたいのかよくわからなくなりました。読んでいる人はもっとよくわからないですよね。もっと文章を書くのがうまくなろうと思います。)
 

さらに前よりもっと生々しい話 1

私は処女です。二十歳にして。よく処女のことを、攻められても落ちない城』といった喩えかたをしますが、私の場合、『人々から忘れ去られ誰からも攻められることがなかった城』って感じです。特別守ろうという意識や意図があったというよりも、単純に『モテないから』という言葉が適切です。 

このブログを読んでいる人は、筆者である稲森雫に対してどんな人物像を持っているのでしょうか。 妄想力が豊かで、じめじめと内向的な性格を持ち、それでいて他人に対しての攻撃性もあり、悪人とは言わないけれど少なくとも善人ではない。こんなところですね。 モテそうな性格をしているようにはとても思えませんね。この『卑屈』を生み出すにあたっての何かしらの土壌があるのだろうと何となく推測ができますね。 
もしどこかの街で、雨の日の捨て犬みたいなじっとりじめじめした女が往来を歩いていたらそれはきっと私です。背が高ければ尚更私である可能性は高いかもしれません。

『男の人が嫌いなのか』という風に聞かれることがあります。私は男の人が嫌いなわけではありません。『嫌い』という感情を持てるほど男の人との接点がないからです。
得体が知れない。何を考えているのかわからない。女の人には同胞意識も湧くし何となくわかるように思えるけれども男の人は一生わからない。永遠の未知です。
この日本社会が異性愛と同じぐらい同性愛がポピュラーなものであれば、私は前向きに女性と交際することを検討したのではないか、と思うときがあります。


特に住宅に関してのお役立ち情報を発信するわけでも無いにも関わらず、集合住宅という名の付いたこのブログ。なんだか、枕草子みたいだなあと思うことがあります。藤原道長の隆盛により斜陽化していく定子中宮の、最も美しかった時代を書き残しているのが枕草子です。作中で描かれる色彩溢れる華やかさと実際には没落していく中関白家、という甘苦さを枕草子は孕んでいるように私は思っています。
私の文章も同じです。美しい瞬間を写真で切り取るように保存して、残りは放置。

私は知ってしまっているんですよ。知りたくなかったことを。 私が一次会で帰った中学高校の同窓会の二次会三次会の果てに、元クラスメイトの男Aと女Aがどんな醜態を演じたか。
高校生の時誰もいない放課後の教室で彼女持ちの男Bと浮気相手の女Bが何をしてたか。その男は平然と高校時代の彼女とずっと今でも付き合い続けていることを。 
酒宴の席でたがが外れた彼らはそういう面を、自らの不道徳を赤裸々に白日の元に曝けだしました。でも多分私が知らないだけでこれはあくまで氷山の一角でしょう。
下賤な言い方をしますが、この学校で処女のまま卒業したのは一体何人いたのかと卒業後今更ながら疑問に思いました。
知りたくないことを知っていくことが大人になるということであるなら、理不尽ですね。

過ぎ行く他人と快速電車

鳥取へ帰る友人Sと三宮で別れたあと、電車に乗った。そのままうちには帰らずに途中の駅で降りて一人でラーメンを食べた。その駅はラーメンの激戦区なのかラーメン屋さんが隣り合わせて何店舗もある。文明の利器『食べログ』を駆使して評価の高い店に決める。頼んだのは海老ラーメン。海老のビスクスープみたいに濃い海老の味のするスープが特徴だ。それでいてあっさりしているので美味しかった。 

食べ終わったあとまた電車に乗る。快速急行。自動ドアが開いて、私は車内に足を踏み入れる。席を探していると、男の人が自分の横の席に置いていた荷物を退けてくれた。人の顔を見るのが苦手なのでその人の顔をよく見たわけではなかったが、そのスマートな所作から『この人はイケメンだ。』と判断した。彼の隣に座る。

数駅の間、私は何となくそわそわしていた。ああ、今日にんにくたっぷりのラーメンを食べようかとも悩んだけど海老ラーメンでよかった。もしにんにくたっぷりのラーメンを食べていたら、香しいまでのにんにくスメルを放っていたかもしれない。私があの店の海老ラーメンを選んだのは、神の采配ではあるまいか。 

にしても私手荷物多すぎないか。カバン一つと、コンビニで買ったサラダとミックスナッツが入ったレジ袋と、タイガーズホール、つまりとらのあなの黒いビニール袋。中身は好きな作家の二年ぶりの新刊。ちょっとアレな本。 えっ大丈夫だよねこの黒いビニール袋を見てとらのあなで買ったってバレてないよね。あの人の目線が心なしか、私の手荷物の方を見ているような気がする。いや自意識過剰か。黒のビニール袋から、アレな本から引き離した透明なセロファンが外に出ていた。叫び出したい気持ちを堪えてガサりと袋のなかにセロファンを突っ込む。物音を立ててしまった。多分そのセロファンを見て何とも思わないだろうけど、アレな本を包装していたセロファンだと思うとその人の視界に入れるのが何となく申し訳ない。

あれ、その人の顔どんなのだっけ。横を見てもいいのだろうか。しかし私はチラ見をするのが超下手だ。ガン見になってしまう。顔ごと対象物の方に向けてしまうから、露骨に見ていることがわかられてしまう。 さっき喫茶店で横の人の食べてるものと横の人をじろじろ見てたら友人のS氏に 『まじまじ見てて怖い。これ雫ちゃんが女性だからまだ許されてるけどもし男女逆転してたら『事案』ですよ『案件』ですよ』とたしなめられたばかりだ。
首と顔面は定位置に固定して動かさずに眼球だけを動かすことを心がける。横顔だけがちらりと分かった。服装はお洒落で、手が綺麗。耳にピアスは開いていない。あと細身のジーンズを綺麗に履きこなすような、細い脚をしているということ。 そして何より彼に好感を持ったのが、彼がスマホをいじっていないことだった。普通、一人で電車に乗っているとき、皆居心地悪そうにスマホをいじっている。 しかし彼は窓の外を眺めて、何かを見ている。彼はもしかしたら私と同じ時間を共有しているのかもしれないと、勝手に期待した。 

私も脚を伸ばそうかな、と思って脚を伸ばし、その数秒後に慌てて突然引っ込めた。いけないいけない。靴って見てる人は見てるって言うし、爪先の剥げて磨耗したこの歩きやすい靴を見たら、今隣にいるこの女の生活感が急に襲ってくるだろう。いけないいけない。 隣の人は不審そうにしている。さっきから私、挙動不審だ。席を譲ったことを後悔されてはいないだろうか。

私はこの隣の人が何をやっている人なのかも幾つなのかも、どこの駅で降りるのかも知らない。向こうだって私のことを知らない。もう二度と同じ電車の同じ車両の同じシートに隣り合わせて座ることなんてないだろう。私は彼の生活に何も介入することなんて出来ないし、彼もまた私の生活に入ってこない。一定の距離感で隔たれたままどうにもならない。彼はもう二度と交わり合うこともない他人だ。 なんという心強い安心感と寂しさを与えるのだろう。当たり前のことを改めて意識した。 彼だけじゃない。こうやって交差して過ぎ行き、もう二度と関わることも知ることもない他人は一体何人いたんだろう。またそんな見知らぬ彼らの時間に私が介入できることなんてあるのだろうか。彼らはずっと赤の他人のまま私の前を過ぎ行くばかりだ。 

 私の降りる駅が近づいてきたので立ち上がって、ドアの方へ行った。プラットホームに降り立ったとき、動き始める電車の窓越しに彼の顔を遠慮なく直視した。やっぱりあの人はイケメンだった。 別れるときにようやくその人の顔をよく見たことが、私の他者との関係の象徴のように思えて、何にも言えなくなる。


花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ